「大東亜戦争回顧録」(佐藤賢了・徳間書店)によると、著者の元陸軍中将・佐藤賢了氏(陸士二九・陸大三七)は、山本五十六長官について次の様に述べている。
「しかし、この作戦(ミッドウェー海戦)は、実施部隊の実情を考慮しない無理な作戦であった。作戦要領の研究準備の時も与えず、長駆インド洋の作戦から帰ったばかりの機動部隊に、汗もふかせずに敵の本拠に近いミッドウェーに、しかも奇襲作戦を行おうとするのは、無理を越えて乱暴というよりほかにいいようながない」
「敵の本拠ハワイの目と鼻の先、ミッドウェー攻略は、準備を万全に整えた組織的強襲でなければならぬ。進発してからでも敵情はまったくわからぬまま、メクラ攻撃に近い攻撃をかけたのである」
「真珠湾奇襲作戦を考案し、訓練し、そしてこれを断行した山本五十六提督は古今の名将である。しかし、ミッドウェーで敗北した山本五十六提督は凡将中の最凡将といっても過言ではない」
「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると、大西瀧治郎海軍中将(海兵四〇)は、「山本大将もエラそうにいうが、航空戦にかけちゃ、全くの素人だヨ。真珠湾でも、ミッドウェーでも、まるでなっとらん」と酷評した。
山本五十六がいかに英邁なりといっても、航空は中年からの年期だったから、たたきあげの航空屋、大西中将からすると、兵術の一角でいくらか徹底したところが足らなく思われたのだろう。
山本五十六をはじめ、日本海軍首脳は米軍の近代兵器導入に勝てなかった。レーダーの早期導入を進言した海軍技術士官に対して、「防御の道具は不要だ。日本には大和魂がある」とはねつけたのは、航空主兵、戦艦無用論の急先鋒、山本理論の後継者であった源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)だった。
アメリカはレーダーの開発だけでなく、対空火器制御の自動化により命中率を飛躍的に向上させることに成功した。複数の対空火器とレーダー、方位盤、射撃盤、水平安定儀をエレクトロニクスを利用して結び、一体化して自動的に対空射撃が可能なシステムを昭和十七年にはすでに実用化した。
このシステムは、プロペラ機なら数十機の目標の半分は撃墜できる能力を持っていた。現実に、日本パイロットの名人芸がなんとか通用したのは昭和十七年半ばまでだった。
昭和十七年十月の南太平洋海戦では、熟練した名パイロットらが参加して九十二機を失い、百四十人が海の藻屑と消えた。
日本海軍の攻撃隊はレーダーによって待ち伏せていた米戦闘機隊と強化された米艦の対空砲火によって、大打撃を食らったのであった。
昭和十八年後半になるとVT(Variable Time)信管付砲弾も実用化した。電波を発しながら飛び、飛行機の十五メートルほどに接近すると、自動的に爆発して飛行機を撃破するもので、命中率は二百倍にも上昇した恐るべき新兵器だった。
こうして日本の攻撃機は米艦隊に歯が立たなくなり、日本の航空主兵主義は敗れるほかはなくなっていった。山本五十六と連合艦隊の参謀達はこのような新兵器に対して、考えも及ばなかった。
松田千秋大佐(海兵四四・海大二六)は、昭和十七年十二月十八日、戦艦日向の艦長から戦艦大和の艦長になった。
ある日、松田艦長は、山本五十六連合艦隊司令長官から「おい、松田君、一緒にめし食おう」と誘われて、長官室で夕食をともにした。
そのとき、山本長官は、連合艦隊司令長官よりも海軍大臣になることを望んでいると言った。松田艦長もその方がやはり適任だと思ったという。
松田艦長は「山本長官は情宜に厚い立派な人で、また先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ。しかし、作戦では感心できるようなものがほとんどなかった」と述べている。
昭和十八年二月十一日、トラック泊地で連合艦隊司令部は戦艦大和から戦艦武蔵に引越しをした。昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部が戦艦長門から戦艦大和に移ってから一年目であった。
昭和十八年四月三日、山本五十六司令長官、宇垣参謀長、幕僚など、連合艦隊司令部は、二式大艇二機に分乗してラバウルに進出した。
ガダルカナル島攻撃の「い」号作戦は山本五十六の誕生日の四月四日から実施する予定だったが、猛烈なスコールのため、作戦発動は三日繰り延べになった。
四月七日から、ガダルカナル島と周辺の連合軍艦船に対する、戦爆連合の大掛かりな空襲を開始した。七日、十一日、十二日、十四日と四日にわたりブーゲンビル島方面の前進基地から延べ四百八十六機の戦闘機と百十四機の艦上爆撃機、八十機の陸上攻撃機が出撃した。
飛行機が出撃する時は、山本司令長官は必ず、白い二種軍装を着て、帽を振りながら、一機一機これを見送った。
見送りがすむと、山本司令長官は艦隊司令南東方面艦隊司令部の司令長官・草鹿任一中将(海兵三七・海大一九)の部屋に帰ってくる。
それからソファに腰掛けて、草鹿中将、第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将(海兵三七・海大一九)、連合艦隊参謀長・宇垣纏中将(海兵四〇・海大二二)と四人くらいで、作戦の打ち合わせをしたり、雑談をしたり、将棋をさしたり、また、病院へ傷病兵の慰問に出かけたり、山本司令長官はじっとしていなかった。
「しかし、この作戦(ミッドウェー海戦)は、実施部隊の実情を考慮しない無理な作戦であった。作戦要領の研究準備の時も与えず、長駆インド洋の作戦から帰ったばかりの機動部隊に、汗もふかせずに敵の本拠に近いミッドウェーに、しかも奇襲作戦を行おうとするのは、無理を越えて乱暴というよりほかにいいようながない」
「敵の本拠ハワイの目と鼻の先、ミッドウェー攻略は、準備を万全に整えた組織的強襲でなければならぬ。進発してからでも敵情はまったくわからぬまま、メクラ攻撃に近い攻撃をかけたのである」
「真珠湾奇襲作戦を考案し、訓練し、そしてこれを断行した山本五十六提督は古今の名将である。しかし、ミッドウェーで敗北した山本五十六提督は凡将中の最凡将といっても過言ではない」
「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると、大西瀧治郎海軍中将(海兵四〇)は、「山本大将もエラそうにいうが、航空戦にかけちゃ、全くの素人だヨ。真珠湾でも、ミッドウェーでも、まるでなっとらん」と酷評した。
山本五十六がいかに英邁なりといっても、航空は中年からの年期だったから、たたきあげの航空屋、大西中将からすると、兵術の一角でいくらか徹底したところが足らなく思われたのだろう。
山本五十六をはじめ、日本海軍首脳は米軍の近代兵器導入に勝てなかった。レーダーの早期導入を進言した海軍技術士官に対して、「防御の道具は不要だ。日本には大和魂がある」とはねつけたのは、航空主兵、戦艦無用論の急先鋒、山本理論の後継者であった源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)だった。
アメリカはレーダーの開発だけでなく、対空火器制御の自動化により命中率を飛躍的に向上させることに成功した。複数の対空火器とレーダー、方位盤、射撃盤、水平安定儀をエレクトロニクスを利用して結び、一体化して自動的に対空射撃が可能なシステムを昭和十七年にはすでに実用化した。
このシステムは、プロペラ機なら数十機の目標の半分は撃墜できる能力を持っていた。現実に、日本パイロットの名人芸がなんとか通用したのは昭和十七年半ばまでだった。
昭和十七年十月の南太平洋海戦では、熟練した名パイロットらが参加して九十二機を失い、百四十人が海の藻屑と消えた。
日本海軍の攻撃隊はレーダーによって待ち伏せていた米戦闘機隊と強化された米艦の対空砲火によって、大打撃を食らったのであった。
昭和十八年後半になるとVT(Variable Time)信管付砲弾も実用化した。電波を発しながら飛び、飛行機の十五メートルほどに接近すると、自動的に爆発して飛行機を撃破するもので、命中率は二百倍にも上昇した恐るべき新兵器だった。
こうして日本の攻撃機は米艦隊に歯が立たなくなり、日本の航空主兵主義は敗れるほかはなくなっていった。山本五十六と連合艦隊の参謀達はこのような新兵器に対して、考えも及ばなかった。
松田千秋大佐(海兵四四・海大二六)は、昭和十七年十二月十八日、戦艦日向の艦長から戦艦大和の艦長になった。
ある日、松田艦長は、山本五十六連合艦隊司令長官から「おい、松田君、一緒にめし食おう」と誘われて、長官室で夕食をともにした。
そのとき、山本長官は、連合艦隊司令長官よりも海軍大臣になることを望んでいると言った。松田艦長もその方がやはり適任だと思ったという。
松田艦長は「山本長官は情宜に厚い立派な人で、また先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ。しかし、作戦では感心できるようなものがほとんどなかった」と述べている。
昭和十八年二月十一日、トラック泊地で連合艦隊司令部は戦艦大和から戦艦武蔵に引越しをした。昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部が戦艦長門から戦艦大和に移ってから一年目であった。
昭和十八年四月三日、山本五十六司令長官、宇垣参謀長、幕僚など、連合艦隊司令部は、二式大艇二機に分乗してラバウルに進出した。
ガダルカナル島攻撃の「い」号作戦は山本五十六の誕生日の四月四日から実施する予定だったが、猛烈なスコールのため、作戦発動は三日繰り延べになった。
四月七日から、ガダルカナル島と周辺の連合軍艦船に対する、戦爆連合の大掛かりな空襲を開始した。七日、十一日、十二日、十四日と四日にわたりブーゲンビル島方面の前進基地から延べ四百八十六機の戦闘機と百十四機の艦上爆撃機、八十機の陸上攻撃機が出撃した。
飛行機が出撃する時は、山本司令長官は必ず、白い二種軍装を着て、帽を振りながら、一機一機これを見送った。
見送りがすむと、山本司令長官は艦隊司令南東方面艦隊司令部の司令長官・草鹿任一中将(海兵三七・海大一九)の部屋に帰ってくる。
それからソファに腰掛けて、草鹿中将、第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将(海兵三七・海大一九)、連合艦隊参謀長・宇垣纏中将(海兵四〇・海大二二)と四人くらいで、作戦の打ち合わせをしたり、雑談をしたり、将棋をさしたり、また、病院へ傷病兵の慰問に出かけたり、山本司令長官はじっとしていなかった。
「VT信管によって命中率が200倍にも上昇した」との記述ですが、米軍の記録によると時計式信管との命中率(撃墜数÷発射弾数)の差異は4倍前後です。