これを聞くと、陸軍大臣・東條英機大将は、次の様に言い出した。
「米内大将が総理か副総理なら、私は陸軍大臣を断ります。米内大将は私が総理時代、国務大臣として入閣をすすめたところが、彼は応じなかった、私は彼の下で大臣を務めることはできない」。
そして、陸軍大臣・東條英機大将は、「杉山元帥に、やっていただいたらどうですか」と提案した。
これに対して、教育総監・杉山元元帥は、「私は断りたい」と答えた。だが、結局、陸軍大臣を不承不承に受諾した。
昭和十九年七月二十二日、小磯内閣が成立したが、その前途には幾多の難関が待ち受けていた。
参謀総長・梅津美治郎大将は、七月二十四日、大本営陸海軍部で「陸海軍爾後の作戦指導大綱」を策定し、参謀総長、軍令部総長同時に上奏允裁を得た。その後も、参謀総長として、多忙のうちに明け暮れた。
昭和十九年八月、軍事参議官会同が三宅坂の陸軍大臣官邸で開かれた。最高戦争指導会議によって決定した内容についての連絡を主とした非公式な会議だった。
戦況不利となりつつあったので、軍事参議官も戦局の推移については不安の気持ちで眺めていた頃だった。
まず、参謀総長・梅津美治郎大将から概略の防衛方針について説明したが、あまり明確な説明ではなかった。
これを聞いた軍事参議官・朝香宮鳩彦王(あさかのみや・やすひこおう)大将(東京・久邇宮朝彦親王の第八王子・陸士二〇・陸大二六・歩兵第一連隊大隊長・陸軍大学校附・歩兵中佐・歩兵大佐・陸軍大学校教官・少将・歩兵第一旅団長・中将・近衛師団長・上海派遣軍司令官・軍事参議官・大将・終戦・貴族院議員を辞職・皇籍を離脱・公職追放・東京ゴルフクラブ名誉会長・昭和五十六年四月死去・享年九十三歳・大勲位菊花大綬章・功一級)は憤然として口を開いて、顔も声も亢奮して次のように詰問した。
「一体あなた方は、どこで、どんなにして敵を禦ぐつもりですか?」。
これに対し、陸軍大臣・杉山元元帥は、二言、三言、言い始めた。隣に座っていた陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥の袖を引っ張って、小さい声で、「閣下の領分ではありませんよ」と囁いた。
そこで、陸軍大臣・杉山元元帥は、ハッと気がついたように発言を止めて、参謀総長・梅津美治郎大将の方を見た。
陸軍大臣・杉山元元帥は、教育総監から陸軍大臣になったばかりであり、しかも数か月前までは、参謀総長として作戦の最高責任者だったので、つい錯覚を起こしてうっかり作戦上の質問に対して、自ら答弁しようとしたのだった。
代わって、参謀総長・梅津美治郎大将が立ち上がって、軍事参議官・朝香宮鳩彦王大将の質問に答えたが、そばで聞いていた者も声が小さくて聞きづらかったという。
陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥と参謀総長・梅津美治郎大将の人物評について、次の様に述べている。
「杉山元帥は清濁併せ呑み、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう=温和でのんびりした人柄)。人を引きつけて人に嫌われず、部下を愛する好好爺で、何といっても高邁なる達識と千万人といえども我往かんの気魄と迫力を欠く。そしてボン帳面で正直で、たまにはせいて騒ぐ。その終わりの欠点の一部面を思わず顕したのが、あの情景であった」
「参謀総長・梅津美治郎大将は、緻密周到、物事を諸般の角度から考察し、慎重中正、識見高く、よく先を見透す眼力があり、事務的才幹においてはおそらく東條大将と並んで陸軍の双璧であろう」
「しかし決断力、また無私の温情というような点になるとあまり良い点数はつけられぬ。一般的に親しみ近づきにくく、自分と同じ型のものを側に置きたがり、少し独断的な傾向のある者、とくに秩序を乱して事を運ばんとする風を持つ者を極端に排撃し、正面から堂々とやらず、悪く言えば陰険なところが難点であった」。
昭和二十年七月頃になると、大東亜戦争もいよいよ終末の段階を迎えんとしていた。このような国家国軍の悲況にあって、軍中央部の空気も目立って上下左右の不信不和の傾向が台頭してきた。これは、戦況不利に対する焦慮が基盤となって発生したものだ。
軍大臣が阿南惟幾大将になって中堅将校はその人格に敬仰していたが、時局の苛烈さが増すにつれて、温情人事や情勢認識の甘さ、作戦面について一部から疑念が持たれていた。
「米内大将が総理か副総理なら、私は陸軍大臣を断ります。米内大将は私が総理時代、国務大臣として入閣をすすめたところが、彼は応じなかった、私は彼の下で大臣を務めることはできない」。
そして、陸軍大臣・東條英機大将は、「杉山元帥に、やっていただいたらどうですか」と提案した。
これに対して、教育総監・杉山元元帥は、「私は断りたい」と答えた。だが、結局、陸軍大臣を不承不承に受諾した。
昭和十九年七月二十二日、小磯内閣が成立したが、その前途には幾多の難関が待ち受けていた。
参謀総長・梅津美治郎大将は、七月二十四日、大本営陸海軍部で「陸海軍爾後の作戦指導大綱」を策定し、参謀総長、軍令部総長同時に上奏允裁を得た。その後も、参謀総長として、多忙のうちに明け暮れた。
昭和十九年八月、軍事参議官会同が三宅坂の陸軍大臣官邸で開かれた。最高戦争指導会議によって決定した内容についての連絡を主とした非公式な会議だった。
戦況不利となりつつあったので、軍事参議官も戦局の推移については不安の気持ちで眺めていた頃だった。
まず、参謀総長・梅津美治郎大将から概略の防衛方針について説明したが、あまり明確な説明ではなかった。
これを聞いた軍事参議官・朝香宮鳩彦王(あさかのみや・やすひこおう)大将(東京・久邇宮朝彦親王の第八王子・陸士二〇・陸大二六・歩兵第一連隊大隊長・陸軍大学校附・歩兵中佐・歩兵大佐・陸軍大学校教官・少将・歩兵第一旅団長・中将・近衛師団長・上海派遣軍司令官・軍事参議官・大将・終戦・貴族院議員を辞職・皇籍を離脱・公職追放・東京ゴルフクラブ名誉会長・昭和五十六年四月死去・享年九十三歳・大勲位菊花大綬章・功一級)は憤然として口を開いて、顔も声も亢奮して次のように詰問した。
「一体あなた方は、どこで、どんなにして敵を禦ぐつもりですか?」。
これに対し、陸軍大臣・杉山元元帥は、二言、三言、言い始めた。隣に座っていた陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥の袖を引っ張って、小さい声で、「閣下の領分ではありませんよ」と囁いた。
そこで、陸軍大臣・杉山元元帥は、ハッと気がついたように発言を止めて、参謀総長・梅津美治郎大将の方を見た。
陸軍大臣・杉山元元帥は、教育総監から陸軍大臣になったばかりであり、しかも数か月前までは、参謀総長として作戦の最高責任者だったので、つい錯覚を起こしてうっかり作戦上の質問に対して、自ら答弁しようとしたのだった。
代わって、参謀総長・梅津美治郎大将が立ち上がって、軍事参議官・朝香宮鳩彦王大将の質問に答えたが、そばで聞いていた者も声が小さくて聞きづらかったという。
陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥と参謀総長・梅津美治郎大将の人物評について、次の様に述べている。
「杉山元帥は清濁併せ呑み、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう=温和でのんびりした人柄)。人を引きつけて人に嫌われず、部下を愛する好好爺で、何といっても高邁なる達識と千万人といえども我往かんの気魄と迫力を欠く。そしてボン帳面で正直で、たまにはせいて騒ぐ。その終わりの欠点の一部面を思わず顕したのが、あの情景であった」
「参謀総長・梅津美治郎大将は、緻密周到、物事を諸般の角度から考察し、慎重中正、識見高く、よく先を見透す眼力があり、事務的才幹においてはおそらく東條大将と並んで陸軍の双璧であろう」
「しかし決断力、また無私の温情というような点になるとあまり良い点数はつけられぬ。一般的に親しみ近づきにくく、自分と同じ型のものを側に置きたがり、少し独断的な傾向のある者、とくに秩序を乱して事を運ばんとする風を持つ者を極端に排撃し、正面から堂々とやらず、悪く言えば陰険なところが難点であった」。
昭和二十年七月頃になると、大東亜戦争もいよいよ終末の段階を迎えんとしていた。このような国家国軍の悲況にあって、軍中央部の空気も目立って上下左右の不信不和の傾向が台頭してきた。これは、戦況不利に対する焦慮が基盤となって発生したものだ。
軍大臣が阿南惟幾大将になって中堅将校はその人格に敬仰していたが、時局の苛烈さが増すにつれて、温情人事や情勢認識の甘さ、作戦面について一部から疑念が持たれていた。