八月三十日、日本帝国と李氏は、済物浦(さいもっぽ)条約を締結し、日本軍による日本公使館の警備を約束し、以後、日本は朝鮮に軍隊を常駐させることになった。
だが、朝鮮は清国の冊封国(さくほうこく=従属国)であるという清国をけん制する意図もあった、日本帝国の陸海軍の派遣は、清国との対立を顕在化した。これが後の日清戦争(明治二十七年七月~明治二十八年三月)へと繋がっていった。
こうして、日本帝国は、軍備の拡張が緊急の課題となった。陸軍では、軍事体制の抜本的な整備と強化を急速に推し進めることが要請された。それには、陸軍首脳部の意識改革と意思統一が不可欠であった。
桂太郎大佐は、そのための第一歩として、陸軍を統率する将官を選抜して、ドイツ、フランスに派遣し、軍事演習を実地に見学して軍隊指揮の知識を研鑽する必要があると建言した。
これを受けて、各兵科の将校を選抜して、陸軍卿・大山巌中将がこれを率いてヨーロッパの軍事情勢を視察することが決定された。
明治十七年二月、大山陸軍卿ヨーロッパ視察団は、横浜港を出発した。参謀本部管西局長・桂太郎大佐(三十六歳)のほかに、随行する将官と主要将校は、次の通り。
士官学校長・三浦梧楼(みうら・ごろう)中将(三十八歳)は、弘化三年生まれ、山口県出身。明治四年七月陸軍大佐(二十四歳)、同年十二月陸軍少将(二十五歳)、東京鎮台司令官。第三局長、広島鎮台司令官、征討第三旅団司令長官。明治十一年十一月中将(三十二歳)。西部軍艦部長、陸軍士官学校校長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十八歳)、子爵、東京鎮台司令官(三十九歳)、熊本鎮台司令官、学習院長、宮中顧問官、予備役、駐韓国特命全権大使(四十九歳)、入獄、出獄、枢密顧問官(六十四歳)、子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。
東京鎮台司令官・野津道貫(のづ・みちつら)少将(四十三歳)は、天保十二年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍少佐(三十歳)。明治七年一月陸軍大佐(三十三歳)、近衛参謀長心得、征討第二旅団参謀長。明治十一年十一月少将(三十七歳)、第二局長。東京鎮台司令官、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(四十三歳)。明治十八年五月陸軍中将(四十四歳)、広島鎮台司令官。第五師団長、第一軍司令官。明治二十八年三月大将(五十四歳)、伯爵、功二級。近衛師団長、東部都督、教育総監(五十九歳)、第四軍司令官、元帥(六十五歳)、侯爵、正二位、大勲位菊花大綬章、功一級。
近衛歩兵第一連隊長・川上操六(かわかみ・そうろく)大佐(三十六歳)は、嘉永元年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍中尉(二十三歳)、功二級。明治十一年十二月陸軍中佐(三十歳)、歩兵第一三連隊長、仙台鎮台参謀長。明治十五年二月陸軍歩兵大佐(三十四歳)、近衛歩兵第一連隊長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十六歳)。明治十八年五月少将(三十七歳)、参謀本部次長、近衛歩兵第二旅団長、ドイツ留学、参謀次長。明治二十三年六月中将(四十二歳)、参謀本部次長、子爵(四十七歳)、シベリア出兵、参謀総長。明治三十一年九月大将(五十歳)。子爵、正三位、勲一等旭日大綬章、功二級。
「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、同じく大山陸軍卿ヨーロッパ視察団の随行を命ぜられた、川上操六大佐について、次の様に記している。
此の時歩兵科の大佐として、川上近衛歩兵連隊長(操六・子爵)が随行を命ぜられけるが、之より前川上大佐は所謂実地的の人にて、我が学理的応用を為す考案とは殆ど正反対ありし。
然るに大山陸軍卿は、到底川上と桂とを和熟せしめ、共に陸軍に従事せしむることを謀らざれば、一大衝突を来すべし、是非この両人を随行せしめんとする意志ありしと見えたり。
又川上大佐も大に其点に見る所あり、我も亦大に川上大佐に見る所ありて、此の随行を命ぜらるゝと同時に、川上と我と両人の間に誓ひて、前に大山陸軍卿の意思ならむと思ふ如く、我々両人が将来相衝突することあれば、我が陸軍の為に一大不利益なれば、冀わくば将来相互に両人の肩頭に我が陸軍を担ふべしと決心し、互ひに長短相補ひ、日本帝国の陸軍のみを眼中に措かば、毫も蔕芥なきにあらずやと。
我又曰、子は軍事を担当せよ、我は軍事行政を担当せんと。この時初めて二人の間に此誓約は成立たり。而して明治十七年の二[一]月、横浜を解纜するより、川上と船室を共にし、欧州巡回中も、殆ど房室を同くし、互ひに長短を補ふの益友となり、我は渠儂が欧州に於て必要とすべきものには、充分の便利を得る様に力を添え、兎に角我等両人にて陸軍を担ふべしとの考案は、相互の脳裡に固結するに及べり。
伊仏独露墺等欧州大陸の軍事を視察し、又英国及び米国を視察し、明治十八年二月を以て帰朝したり。
同年五月我は陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長に補せらる。川上も同時に陸軍少将に任じ、参謀本部次長に補せられたり。
爾来我と川上と互ひに相提携して、大に軍事上に尽くすことを得たるの第一着なりき。是全く大山陸軍卿の処置の公平なりしのみならず、斯くあらざれば大に軍事上の進歩を計ること能はざりしなり。
然るに我と川上とは新参将校中より擢用せられて、枢要の地位を占めたるより、物論囂々ともいふべきありさまなりし。
だが、朝鮮は清国の冊封国(さくほうこく=従属国)であるという清国をけん制する意図もあった、日本帝国の陸海軍の派遣は、清国との対立を顕在化した。これが後の日清戦争(明治二十七年七月~明治二十八年三月)へと繋がっていった。
こうして、日本帝国は、軍備の拡張が緊急の課題となった。陸軍では、軍事体制の抜本的な整備と強化を急速に推し進めることが要請された。それには、陸軍首脳部の意識改革と意思統一が不可欠であった。
桂太郎大佐は、そのための第一歩として、陸軍を統率する将官を選抜して、ドイツ、フランスに派遣し、軍事演習を実地に見学して軍隊指揮の知識を研鑽する必要があると建言した。
これを受けて、各兵科の将校を選抜して、陸軍卿・大山巌中将がこれを率いてヨーロッパの軍事情勢を視察することが決定された。
明治十七年二月、大山陸軍卿ヨーロッパ視察団は、横浜港を出発した。参謀本部管西局長・桂太郎大佐(三十六歳)のほかに、随行する将官と主要将校は、次の通り。
士官学校長・三浦梧楼(みうら・ごろう)中将(三十八歳)は、弘化三年生まれ、山口県出身。明治四年七月陸軍大佐(二十四歳)、同年十二月陸軍少将(二十五歳)、東京鎮台司令官。第三局長、広島鎮台司令官、征討第三旅団司令長官。明治十一年十一月中将(三十二歳)。西部軍艦部長、陸軍士官学校校長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十八歳)、子爵、東京鎮台司令官(三十九歳)、熊本鎮台司令官、学習院長、宮中顧問官、予備役、駐韓国特命全権大使(四十九歳)、入獄、出獄、枢密顧問官(六十四歳)、子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。
東京鎮台司令官・野津道貫(のづ・みちつら)少将(四十三歳)は、天保十二年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍少佐(三十歳)。明治七年一月陸軍大佐(三十三歳)、近衛参謀長心得、征討第二旅団参謀長。明治十一年十一月少将(三十七歳)、第二局長。東京鎮台司令官、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(四十三歳)。明治十八年五月陸軍中将(四十四歳)、広島鎮台司令官。第五師団長、第一軍司令官。明治二十八年三月大将(五十四歳)、伯爵、功二級。近衛師団長、東部都督、教育総監(五十九歳)、第四軍司令官、元帥(六十五歳)、侯爵、正二位、大勲位菊花大綬章、功一級。
近衛歩兵第一連隊長・川上操六(かわかみ・そうろく)大佐(三十六歳)は、嘉永元年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍中尉(二十三歳)、功二級。明治十一年十二月陸軍中佐(三十歳)、歩兵第一三連隊長、仙台鎮台参謀長。明治十五年二月陸軍歩兵大佐(三十四歳)、近衛歩兵第一連隊長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十六歳)。明治十八年五月少将(三十七歳)、参謀本部次長、近衛歩兵第二旅団長、ドイツ留学、参謀次長。明治二十三年六月中将(四十二歳)、参謀本部次長、子爵(四十七歳)、シベリア出兵、参謀総長。明治三十一年九月大将(五十歳)。子爵、正三位、勲一等旭日大綬章、功二級。
「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、同じく大山陸軍卿ヨーロッパ視察団の随行を命ぜられた、川上操六大佐について、次の様に記している。
此の時歩兵科の大佐として、川上近衛歩兵連隊長(操六・子爵)が随行を命ぜられけるが、之より前川上大佐は所謂実地的の人にて、我が学理的応用を為す考案とは殆ど正反対ありし。
然るに大山陸軍卿は、到底川上と桂とを和熟せしめ、共に陸軍に従事せしむることを謀らざれば、一大衝突を来すべし、是非この両人を随行せしめんとする意志ありしと見えたり。
又川上大佐も大に其点に見る所あり、我も亦大に川上大佐に見る所ありて、此の随行を命ぜらるゝと同時に、川上と我と両人の間に誓ひて、前に大山陸軍卿の意思ならむと思ふ如く、我々両人が将来相衝突することあれば、我が陸軍の為に一大不利益なれば、冀わくば将来相互に両人の肩頭に我が陸軍を担ふべしと決心し、互ひに長短相補ひ、日本帝国の陸軍のみを眼中に措かば、毫も蔕芥なきにあらずやと。
我又曰、子は軍事を担当せよ、我は軍事行政を担当せんと。この時初めて二人の間に此誓約は成立たり。而して明治十七年の二[一]月、横浜を解纜するより、川上と船室を共にし、欧州巡回中も、殆ど房室を同くし、互ひに長短を補ふの益友となり、我は渠儂が欧州に於て必要とすべきものには、充分の便利を得る様に力を添え、兎に角我等両人にて陸軍を担ふべしとの考案は、相互の脳裡に固結するに及べり。
伊仏独露墺等欧州大陸の軍事を視察し、又英国及び米国を視察し、明治十八年二月を以て帰朝したり。
同年五月我は陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長に補せらる。川上も同時に陸軍少将に任じ、参謀本部次長に補せられたり。
爾来我と川上と互ひに相提携して、大に軍事上に尽くすことを得たるの第一着なりき。是全く大山陸軍卿の処置の公平なりしのみならず、斯くあらざれば大に軍事上の進歩を計ること能はざりしなり。
然るに我と川上とは新参将校中より擢用せられて、枢要の地位を占めたるより、物論囂々ともいふべきありさまなりし。