陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

527.永田鉄山陸軍中将(27)陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる

2016年04月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山少将は、参謀本部第二部長時代に、「新軍事読本」という本を編著して出している。多忙な時間を縫ってまで書き綴った永田少将の胸に激しく燃えていたのは、「良兵ヲ養ウハ即チ良民ヲ造ル所以」という理念であり、「軍人である前に人間であれ」という痛烈な叫びであり、訴えだった。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、永田鉄山少将、小畑敏四郎少将を両軸にした統制派と皇道派の対立の、陸軍省、参謀本部の陸軍中央内部の実態について、記している。

 当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三(ありすえ・せいぞう)少佐(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・在イタリア大使館附武官・航空兵大佐・軍務局軍務課長・北支那方面第四課長・北支那方面参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・終戦直後対連合国陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長・勲二等)は戦後次のように証言している(要旨抜粋)。

 永田さんは合理主義的な考えを持っており理想もある。その理想を着々と実行して行くという、合理適正な方で、しかも非常な包容力を持っている。

 どういう訳で派閥の形になって来たか。陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる。そういう空気がある。

 当時の派閥の一番の根源は小畑さんと永田さんの仲たがい、意見が合わんということではないか、という風にみんなは見ていた。

 永田さんと小畑さん、参謀本部の第二部長、第三部長の意見の相違がある。その時の参謀次長は、真崎甚三郎中将でしたが、真崎さんはなぜ、ちゃんと恰好をつけないか。

 永田さんと小畑さんは別に切り合いをしたわけでもなければ、殴り合いをしたわけでもない。結局、対ソ情勢判断についての論争に端を発した。

 永田さんは、今は対ソ作戦はやるべきではない、国内体制や満州問題を固めるべきだという意見。小畑さんは作戦畑の出身ではあるし、対ソ作戦準備第一主義というか、要するに北進論だ。

 それが実際問題として現れたのが、北満鉄道買収の問題だ。小畑さんは第三部長、鉄道関係の部長として、北満鉄道なんてそのうちに転げ込んでくる、下手に買収すると、ソ連の経済状態をよくし、その情報募集を容易にするという主張だった。

 これに対し永田さんの方は、それは買った方がいい。買えば満州国国内の治安維持は非常に楽になるというのが、狙いだという。

 最終的に、北満鉄道は買収してしまったが、満州国国内の治安維持には確かによくなったが、ソ連の対日工作を容易にした不利があった。

 結局、北進だ、南進だ、といわれ、それが後に、皇道派が北進、統制派は南進ということになった。後に統制派が南進して支那事変から大東亜戦争にまで発展したんだと言われているが、それは少し飛躍している。

 参謀本部の第二部長は全般の情勢分析をして情勢判断をする。第三部長は運輸・通信の関係から、また作戦部関係の者はその観点から情勢を判断しがちだ。

 だから参謀本部ではしょっちゅう、第二部長の意見は全部蹴られてしまう。私も第二部長をやったが、第二部長案というものは、それはもう情けないほど通らない。

 昭和二年、濃尾平地での大演習で、私は演習課主任部員で、部長が荒木貞夫(あらき・さだお)少将(東京・陸士九・陸大一九首席・ロシア出張・歩兵大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部支那課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・勲一等・従二位)だった。

 審判官の割振りをした時に、陸軍省軍事課高級課員・永田鉄山中佐と参謀本部作戦課長・小畑敏四郎中佐の両雄を対抗してやってもらった。当時は派閥など思いもよらぬ事で、いわば、良い意味での好敵手だった。

 これは、参謀本部演習班長・阿南惟幾(あなみ・これちか)中佐(東京・陸士一八・陸大三〇・十八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・自決・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級)の起案によるものだった。今から思えば無量の感慨にふけらされる。

 小畑さんは私(有末少佐)の陸軍大学校時代の教官だった。小畑さんは独特のいい考えを持っている人で、当時ロシアのヤヌシュケウイッチ少将の回想録を入手され、それを基礎にして、東方戦場の戦史を講義した。

 小畑さんは、非常に作戦的、独創的で徹底した考えもありながら、なかなかまた政治的な素質があった。

 小畑さんは、元田肇(もとだ・はじめ・大分・東京帝国大学法科卒・弁護士・衆議院議員・衆議院副議長・逓信大臣・鉄道大臣・衆議院議長・枢密顧問官・勲一等瑞宝章)のお婿さんだった。
 
また、船田中(ふなだ・なか・栃木・東京帝国大学法科卒・内務省・東京市長代理・衆議院議員・防衛庁長官・自民党安全保障調査会長・衆議院議長・自民党副総裁・旭日桐花大綬章・従二位)と義兄弟でもあった。

 第一次世界大戦の時、小畑さんは荒木貞夫さんと一緒に従軍しており、荒木さんは小畑さんの性格や能力を識っていた。

 荒木さんが参謀本部第一部長(作戦)の時に、まだ中佐であった小畑さんを作戦課長に抜擢した。荒木さんは思想に置いてもその能力に於いても、小畑さんを信任していた。