永田は「ソ連にあたるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は、戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」という。
これに対し私は、支那を叩くといってもこれは決して武力で片付くものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる。
また対ソ準備といっても、こちらから攻勢に出るのではないが、戦争をしない建前で訓練するといっても全く無意味で一カ月で済む訓練が一年もかかるといって反駁(はんばく)した。
第二回の会議では永田が旅行中で欠席していたので、当初の基本方針を満場一致で決定した。私は軍の方針が決定したので、これに基づいて内外の国策を樹立すべく、大わらわになって斎藤内閣にぶっつかって行った。
私がこういう根本方針で、恐らく一生の中で一番精魂を傾けている時に病気になり、空しく内閣を去ることになった。
私は全てを後任の林銑十郎大将に依頼して熱海に行って療養していたが、ようやく丈夫になって熱海から帰って来てみると、軍は私の根本計画を何もやっていなかった。私はこの時ぐらい失望したことはない。
林陸相は軍務局長に永田鉄山を任命した。前に述べたように、永田は対支戦争を考えていたし、小畑の対ソ準備論と激しく対立していた。
これが世間でいう皇道派と統制派の争いで、必ずしも派閥の争いではなく、国策の根本的対立であった。永田一派の対支戦争という考え方こそ、大東亜戦争の遠因であった。(『丸』昭和三十一年十二月号「日本陸軍興亡の二十年」)。
以上が、荒木大将の陸軍の省部合同首脳会議についての回顧談である。
だが、一方、「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によれば、この陸軍の省部合同首脳会議について、著者の川田稔氏は、次のように述べている(要旨抜粋)。
昭和八年四月中旬から五月上旬にかけて、今後の陸軍の戦略の基本方針を決定するため、陸軍省と参謀本部の局長、部長、課長が集まり、合同の首脳会議が開かれた。
この省部首脳会議は、今後の政府の基本方針を定めるための五相会議(斎藤首相以下、外相、蔵相、陸相、海相)に向けて、陸軍の意志を統一するために開かれた。
この会議で、永田少将と小畑少将は、対ソ戦略をめぐり激しい論争を行なった。その結果会議に出席した省部の幕僚たちの間では、永田少将の意見が多数の賛同を得た。
だが、荒木陸軍大臣は、小畑少将の意見を支持し、陸軍首脳部は小畑少将の意見に基づいて、対ソ戦争準備方針を決定したのである。
ところが、五相会議では、荒木陸軍大臣の対ソ戦争準備方針とその為の軍備拡張の主張は、高橋是清蔵相、広田弘毅外相らによって抑えられた。
この対ソ戦略についての小畑と永田の対立は、同時期前後の日ソ不可侵条約問題や北満鉄道買収問題への対応と連動していた。
日ソ不可侵条約の問題は、日ソ国交樹立の翌年一九二六年にソ連から提議されて以来、断続的に日ソ間でやり取りがなされていたが、満州事変後の一九三二年、あらためて提案がなされ、斎藤内閣の下で本格的に検討された。
永田ら参謀本部情報部(情報部長直轄の総合班長は武藤章)は、条約締結に積極的で「即時応諾すべし」との意見であった。
しかし陸軍部内では、主流の荒木、小畑、鈴木貞一ら対ソ強硬派が反対で、永田らの意見は採用されなかった。
外務省はソ連と疎隔している米英への考慮もあり、荒木ら陸軍中枢の強い意向を押し切ってまで条約を締結する必要はないと考えていた。結局、斎藤内閣は条約締結の方向には進まなかった。
この日ソ不可侵条約が締結されなかったことは、後に陸軍の対中国戦略にとって大きな制約要因となっていく。
対ソ防備の必要から、常にソ満国境にはかなりの兵力を割いておく必要があり、翌年の熱河作戦をはじめとする軍事作戦に十分な兵力を投入できず、軍事的圧力が不十分なまま謀略工作に頼らざるを得なくなっていくからである。
この陸軍の省部合同首脳会議について、「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう)陸軍憲兵大佐(滋賀・陸士三一・東大政治学科・京都憲兵隊長・第二五軍軍政部附・憲兵大佐・京城憲兵隊長・陸軍憲兵学校教官・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯で重労働十年・仮釈放)は次のように述べている(要旨抜粋)。
荒木が陸相になったのは昭和六年十二月のことだが、彼は満州事変、その他緊急の課題が一応片付いた昭和八年六月に、省部の課長級以上の幕僚を集めて、今後の国防施策に関する国際情勢の判断を求めた。
これに対し私は、支那を叩くといってもこれは決して武力で片付くものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる。
また対ソ準備といっても、こちらから攻勢に出るのではないが、戦争をしない建前で訓練するといっても全く無意味で一カ月で済む訓練が一年もかかるといって反駁(はんばく)した。
第二回の会議では永田が旅行中で欠席していたので、当初の基本方針を満場一致で決定した。私は軍の方針が決定したので、これに基づいて内外の国策を樹立すべく、大わらわになって斎藤内閣にぶっつかって行った。
私がこういう根本方針で、恐らく一生の中で一番精魂を傾けている時に病気になり、空しく内閣を去ることになった。
私は全てを後任の林銑十郎大将に依頼して熱海に行って療養していたが、ようやく丈夫になって熱海から帰って来てみると、軍は私の根本計画を何もやっていなかった。私はこの時ぐらい失望したことはない。
林陸相は軍務局長に永田鉄山を任命した。前に述べたように、永田は対支戦争を考えていたし、小畑の対ソ準備論と激しく対立していた。
これが世間でいう皇道派と統制派の争いで、必ずしも派閥の争いではなく、国策の根本的対立であった。永田一派の対支戦争という考え方こそ、大東亜戦争の遠因であった。(『丸』昭和三十一年十二月号「日本陸軍興亡の二十年」)。
以上が、荒木大将の陸軍の省部合同首脳会議についての回顧談である。
だが、一方、「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によれば、この陸軍の省部合同首脳会議について、著者の川田稔氏は、次のように述べている(要旨抜粋)。
昭和八年四月中旬から五月上旬にかけて、今後の陸軍の戦略の基本方針を決定するため、陸軍省と参謀本部の局長、部長、課長が集まり、合同の首脳会議が開かれた。
この省部首脳会議は、今後の政府の基本方針を定めるための五相会議(斎藤首相以下、外相、蔵相、陸相、海相)に向けて、陸軍の意志を統一するために開かれた。
この会議で、永田少将と小畑少将は、対ソ戦略をめぐり激しい論争を行なった。その結果会議に出席した省部の幕僚たちの間では、永田少将の意見が多数の賛同を得た。
だが、荒木陸軍大臣は、小畑少将の意見を支持し、陸軍首脳部は小畑少将の意見に基づいて、対ソ戦争準備方針を決定したのである。
ところが、五相会議では、荒木陸軍大臣の対ソ戦争準備方針とその為の軍備拡張の主張は、高橋是清蔵相、広田弘毅外相らによって抑えられた。
この対ソ戦略についての小畑と永田の対立は、同時期前後の日ソ不可侵条約問題や北満鉄道買収問題への対応と連動していた。
日ソ不可侵条約の問題は、日ソ国交樹立の翌年一九二六年にソ連から提議されて以来、断続的に日ソ間でやり取りがなされていたが、満州事変後の一九三二年、あらためて提案がなされ、斎藤内閣の下で本格的に検討された。
永田ら参謀本部情報部(情報部長直轄の総合班長は武藤章)は、条約締結に積極的で「即時応諾すべし」との意見であった。
しかし陸軍部内では、主流の荒木、小畑、鈴木貞一ら対ソ強硬派が反対で、永田らの意見は採用されなかった。
外務省はソ連と疎隔している米英への考慮もあり、荒木ら陸軍中枢の強い意向を押し切ってまで条約を締結する必要はないと考えていた。結局、斎藤内閣は条約締結の方向には進まなかった。
この日ソ不可侵条約が締結されなかったことは、後に陸軍の対中国戦略にとって大きな制約要因となっていく。
対ソ防備の必要から、常にソ満国境にはかなりの兵力を割いておく必要があり、翌年の熱河作戦をはじめとする軍事作戦に十分な兵力を投入できず、軍事的圧力が不十分なまま謀略工作に頼らざるを得なくなっていくからである。
この陸軍の省部合同首脳会議について、「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう)陸軍憲兵大佐(滋賀・陸士三一・東大政治学科・京都憲兵隊長・第二五軍軍政部附・憲兵大佐・京城憲兵隊長・陸軍憲兵学校教官・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯で重労働十年・仮釈放)は次のように述べている(要旨抜粋)。
荒木が陸相になったのは昭和六年十二月のことだが、彼は満州事変、その他緊急の課題が一応片付いた昭和八年六月に、省部の課長級以上の幕僚を集めて、今後の国防施策に関する国際情勢の判断を求めた。