陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

525.永田鉄山陸軍中将(25)しかし、永田亡き後、統制派などというものは無かったのである

2016年04月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 出席する者、陸軍省側、柳川平助次官、山岡重厚軍務局長、山下奉文軍事課長、また、参謀本部側は真崎次長、梅津美治郎総務、古荘幹郎第一、永田鉄山第二、小畑敏四郎第三の各部長といった大会議であった。

 会議の目的は、国防上の見地から最も脅威を感ずる相手国を想定し、これに対して完全な自衛方法を考究するにあった。

 当時の国際情勢、ことに満州国が独立して、これと共同防衛の責任を負った我が国としては、その危険と脅威はむしろソ連にあった。これには何人も異論はなかった。

 しかしソ連を仮想敵国とすることには異存はないが、軍事技術的な見地から見ると問題があり、永田鉄山第二部長は次のように強く主張した。

 「これまで排日抗日の支那に一撃を与えた後で、ソ連に備えるべきで、満州国独立の基礎を確立するためには、まず支那を抑えなくてはならぬ」。

 この案を起草したのは、その頃永田のもとにあった武藤章中佐だった。これに対し、真っ向から反対したのが小畑敏四郎第三部長だった。小畑第三部長は次のように主張した。

 「ソ連を目標とする自衛すら、今日のところ困難が予想されるのに、さらに支那をも敵とすることは、現在の我が国力をもってしては極力避けねばならない」

 「支那と全面的に戦う事は、我が国力を極度に費消するのみならず、短期間でその終結を期待することは困難である。むしろ支那とはことを構えずにもっぱら和協へ途を求めるべきである」。

 この意見には同調者が多かった。第二回の会議では、永田は旅行中で欠席したので、おおむね小畑案に決まったが、永田と小畑の意見の対立は、その後、あとを引いて、両者の間に深い溝ができてしまった。

 それだけではない、小畑が、真崎、荒木につながり、皇道派の首脳をもって任じ、一方、永田がその後、林陸相に迎えられて軍務局長となり、いわゆる統制派幕僚の中心となると、皇道派、統制派という二つの派閥の対外策の相違として、いつの間にか、統制派は対ソ容共派、皇道派は対ソ強硬派と言われていた。

 おそらく、小畑や真崎、荒木らのこの会議当時の印象が、永田攻撃というよりも、統制派攻撃の手に使われたものと思われる。こうしたことは、青年将校に伝わり、さらにこれと直結する右翼へと伝えられる。

 だが、統制派を永田の下に集まる国家改造を志した幕僚グループとするならば、このグループの国家改造はあくまで国内改革であって、戦争政策や対外政策を論議決定したものではなかった。だから、統制派が対ソ妥協の親ソ容共派であるというのは、全くの言いがかりに近い妄説なのである。

 だが、この説がまことしやかに通用して来た。ことに二・二六以後、日支戦争が起こると、統制派の対ソ親善、対支強硬派が巧みに利用された。こういう仮説に立つと、歴史の事実を説明するのに都合がいいからである。

 これだと近衛の言う、支那事変を拡大に導いたのは統制派幕僚だとする判断に、しっくり符号するからである。永田はソ連よりもまず支那を叩けと言った。だから統制派幕僚たちは支那事変を拡大から拡大へ推し進めた、と説明がつくのである。

 しかし、永田亡き後、統制派などというものは無かったのである。現に永田の腹心である池田純久中佐は、北支事変勃発当時、天津駐屯軍の作戦主任参謀だったが、彼がいかに拡大派を抑えるに腐心したかは周知の事実で、このため彼はとうとう天津軍を追われている。

 この一つの事実が示すように、統制派というグループが対外策として対ソ親善、対支強硬を主張していたなどは、およそナンセンスな判断である。

 だが、近衛および近衛一派の人々は、かたくこの仮説を信じ切っていた。勿論、それは近衛の錯覚誤認によるのだが、これをまことしやかに近衛に教えたのは、皇道派の巨頭たちであったろう。近衛のこの思想はずっと生きて、近衛上奏の内容にもつながっている。

 以上が、大谷敬二郎陸軍憲兵大佐が、「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)の中で述べた統制派と皇道派についての所見である。

 ところで、北満鉄道の買収問題について、「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、永田直系の統制派の片倉衷(かたくら・ただし)少将(福島・陸士三一・陸大四〇・関東軍第四課長・歩兵中佐・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・緬甸(ビルマ)方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・第二〇二師団長・戦後スバス・チャンドラ・ボ^-ス・アカデミー会長)は後年の回想として、次のように述べている。

 参謀本部の永田第二部長と小畑第二部長の意見対立の根本には、軍政型と軍令型という資質と経歴の違いがある。それは同時に、統制派と皇道派の違いでもある。