陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

521.永田鉄山陸軍中将(21)閑院宮載仁参謀総長と真崎参謀次長との間に溝が生じてしまった

2016年03月18日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和六年十二月犬養内閣成立と共に、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・陸軍大学校兵学教官・兼元帥副官・ロシア軍従軍・中佐・参謀本部附・ハルピン特務機関大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・大六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・A級戦犯で終身刑・釈放・従二位・勲一等・功三級・男爵)が陸軍大臣に就任した。 

 これは、「三月事件」「十月事件」などで、重臣や政党、財界などが、中堅幕僚、青年将校層の急進的な行動に恐怖を感じ、彼らに人気のある荒木中将を登用し、行動を鎮めようとした。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木中将は皇道派の先頭に立っている人物であり、生来の陽気な性格から、国粋主義を吹聴していたので、青年将校たちの人気を集めるようになった。

 一方、政党や財界は、荒木中将なら部内の急進分子を抑えることが出来ると期待した。ここに荒木中将の人気の矛盾があった。この矛盾のため、結局、彼は両方とも満足させることが出来なかった。

 昭和七年一月、陸軍大臣となった荒木中将は、陸士、陸大ともに同期で、同じ皇道派、親友の真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・教育総監・従二位・勲一等・功三級)をさっそく参謀次長に据えた。

 満州事変以来、参謀総長と軍令部長には皇族を置いたが、これは内部的には派閥対立の感傷的な意味があり、外部的には軍の威信を示す象徴的な意味があった。

 だから実際の権限は参謀次長にあった。皇族に責任を負わせないという建前からも真崎参謀次長は事実上の参謀総長だった。

 このため、真崎参謀次長が自分をさし置いて権限を振り回すのを不満とした閑院宮載仁参謀総長と真崎参謀次長との間に溝が生じてしまった。

 また、昭和七年二月から八月にかけて、陸軍大臣・荒木中将は次のような陸軍人事を行なった。彼らは、やがて、荒木中将を筆頭に、皇道派を結成することになる幕僚であった。

 人事局長に同じ皇道派の松浦淳六郎(まつうら・じゅんろくろう)少将(福岡・陸士一五・陸大二四・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・歩兵第一三連隊長・教育総監部庶務課長・陸軍省副官・少将・歩兵第一二旅団長・陸軍省人事局長・中将・陸軍歩兵学校長・第一〇師団長・予備役・賀陽宮家別当・第一〇六師団長・従三位・勲一等・功五級)。

 軍事課長に山下奉文(やました・ともゆき)大佐(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省軍事調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・陸軍航空総監・遣ドイツ視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・戦犯によりマニラで死刑)。

 教育総監部本部長に香椎浩平(かしい・こうへい)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・歩兵第四六連隊長・少将・陸軍戸山学校長・支那駐屯軍司令官・中将・教育総監部本部長・第六師団長・東京警備司令官・兼戒厳司令官・予備役)。

 憲兵司令官に秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)。

 参謀本部作戦課長(二度目)に小畑敏四郎(おばた・としろう)大佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校監事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣)。

 陸軍次官に柳川平助(やながわ・へいすけ)中将(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣)。

 軍務局長に山岡重厚(やまおか・しげあつ)少将(高知・陸士一五・陸大二四・歩兵第二二連隊長・教育総監部第二課長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・中将・第九師団長・予備役・第109師団長・善通寺師管区司令官)。

 この時、永田鉄山大佐は陸軍省軍務局軍事課長(昭和五年八月~)だったが、昭和七年四月、永田鉄山大佐は少将に進級し、参謀本部第二部長に就任した。同時に小畑敏四郎大佐も少将に進級し、参謀本部第三部長に就任した。