陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

519.永田鉄山陸軍中将(19)やがて二人の関係は犬猿の仲になっていった

2016年03月04日 | 永田鉄山陸軍中将
 「十月事件」で「桜会」は解体され、中堅幕僚たちの動きも静まって行った。だが、彼ら中堅幕僚たちは、その後のいわゆる「統制派」を構成していく。

 「十月事件」は、その構成分子に三様の区別があった。第一は永田軍事課長ら中央軍部の幕僚であり、第二は、橋本中佐ら中央の幕僚と密接な関係にあった「桜会」に属する将校であり、第三は皇道派青年将校達だった。

 第一と第二は大川周明の指導、第三は北一輝、西田税の影響下にあった。第一、第二は国家社会主義的思想傾向を持ち、第三は天皇主権の絶対的信念下にあった。

 この革新派の思想的対立が「十月事件」以後、「血盟団事件」「五・一五事件」「神兵隊事件」そして「相沢事件」「二・二六事件」となって混乱を重ねていった。

 ところで、永田鉄山(昭和二年三月五日大佐に進級)と小畑敏四郎(昭和二年七月二十六日大佐に進級)は大佐時代に、徐々に交流がなくなり、手紙のやり取りもしなくなった。

 岡村寧次(昭和二年七月二十六日大佐に進級)は二人の仲を取り持つことに努力し続けたが、やがて二人の関係は犬猿の仲になっていった。

 この二人の関係について、鈴木貞一元中将は、戦後、次のように証言している。

 永田という人は、小畑とは非常な性格の相違があるのだが、非常に幅広く物を考えて行動する人で、そういう性格の持ち主であった。

 小畑という人は、とにかく統帥一点張りに物を考えてやっていく狭く深い考えで行く人である。私は両方に仕えているから知っているが、それが二人の性格の差であった。

 その差が、世間が騒ぐようなことになったんだが、本人同志は別に何という事はないように覚えている。ただ性格の差から物の考え方に相違ができているという程度で、世間でいうような派閥の関係とかそういうようなことは一つもない。

 以上が鈴木貞一元中将の見解だが、戦後の記述なので、意図的な配慮があるのだろうが、「性格の差」を素因とした一面的な見方でしか述べていない。

 実際は永田と小畑の、派閥的(統制派と皇道派)対立、軍歴(軍政畑と軍令畑)の違い、戦略(対支戦重視と対ソ戦重視)の相違など、もっと複雑多肢に渡った原因から来ている。

 二人の関係の悪化が顕著になって来たのは、昭和六年十二月、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・大六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・A級戦犯で終身刑・釈放)が犬養内閣の陸軍大臣に就任したことから始まった。

 それまでの永田大佐の軍歴は、昭和三年三月歩兵第三連隊長。昭和五年八月陸軍省軍事課長(~昭和七年四月)。

 小畑敏四郎大佐の軍歴は、昭和三年八月歩兵第一〇連隊長。昭和五年八月陸軍歩兵学校研究部主事。昭和六年八月陸軍大学校兵学教官(~昭和七年二月)。

 荒木貞夫中将が陸軍大臣に在任中(昭和六年十二月十三日~昭和九年一月二十三日)の二人の軍歴は次の通り。

 永田大佐は、昭和七年四月少将、参謀本部第二部長(情報)。昭和八年八月歩兵第一旅団長。

 小畑大佐は、昭和七年二月参謀本部作戦課長、四月少将、参謀本部第三部長(運輸・通信)。昭和八年八月近衛歩兵第一旅団長。

 「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、荒木貞夫中将は、参謀本部第一部長、陸軍大学校長、大六師団長(熊本)を歴任し、昭和六年八月教育総監部本部長に転補された。

 その際、東京着任時には、軍の革新将校が出迎えた。また、右翼の歓迎デモが計画されたほど、彼の東京入りは、革新陣営の大きな期待だった。

 そして間もなく、「十月事件」が計画されたが、そのクーデター計画では荒木中将は首相に予定されていた。「革新」における荒木中将の名声は確たるものがあった。

 この荒木中将を犬養内閣に推薦したのは、南次郎陸相だったが、これには教育総監・武藤信義大将の強い要請によるものだった。また、上原勇作元帥もわざわざ組閣本部に犬養を訪ねて、荒木中将の入閣を推薦した。

 青年将校らは、荒木中将の教育総監部本部長時代から、そのもとに集まっていたが、陸軍大臣になるにおよんで、完全にその傘下に入った。