機動部隊は結局、天候不良を理由として、ミッドウェイ攻撃をやらなかった。
すると連合艦隊司令部は、機動部隊に、12月15日、ウェーキ島攻略作戦の支援を命じた。
開戦と同時にマーシャル群島のケゼリンに本部を置いた第四艦隊は、ウェーキ島の占領を試みたが、敵の抵抗は頑強だった。
空母エンタープライズが運んだグラマン戦闘機のため、第二艦隊は逆に駆逐艦二隻を撃沈されてしまったのである。
第四艦隊長官の井上成美中将は、航空部隊の援助を要請した。
南雲中将と井上中将とは、お互い大佐の時に「省部事務互渉規定改正」をめぐって「判を押さんか」「絶対に押さない」、「殺すぞ」「そんな脅しはこわくない」とやりあった、犬猿の仲であった。
それは条約派と艦隊派、軍令部と海軍省の闘いでもあった。
このような立場の南雲と井上であったが、機動部隊の南雲長官は「井上も困っているだろう。こちらはうまくいったが、向こうはウェーキ一つとれなくては、山本さんに合わせる顔もあるまい」と言って攻撃を下令した。
井上は、山本五十六が次官の時の軍務局長で、山本の秘蔵っ子である。
12月16日夕刻、南雲長官は山口多聞少将の二航戦に、八戦隊をつけて、ウェーキ再攻撃の増援を命じた。
再攻撃で、12月22日、米軍のウェーキの航空部隊を全滅させた。その結果、全島占領は成功した。
機動部隊の旗艦、空母赤城が瀬戸内海の柱島泊地に投錨したのは12月23日午後6時半であった。
赤城入港の報を聞くと、山本五十六連合艦隊司令長官は、宇垣纏参謀長を呼んで、「君、行ってきたまえ」と言った。
それは怒ったような口調であったという。いつもの悠揚迫らず、といった山本らしくもなかった。
理由は、連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間には感情敵的な対立があった。
それは真珠湾攻撃の時に始った。真珠湾に出掛ける直前までは、両者は心が通じ合っていた。
しかし、機動部隊が一応成功を収めた時から、溝は掘られ始めていた。
機動部隊には、連合艦隊司令部が何と言おうと、実際に砲火を浴びて戦果を上げたのは俺達だという自負がある。
連合艦隊司令部としては、前線が戦果を上げ得たのは連合艦隊司令部の指導よろしきを得たからだ、常に連合艦隊司令部を立てるべきだ、それを忘れるな、と言いたいのである。
柱島泊地に投錨した赤城に宇垣纏参謀長が乗り込んできたが、以上のようないきさつがあるので、あまり歓迎されなかった。
宇垣参謀長は長官公室に入ると、南雲長官にお祝いの言葉を述べ、次いで、草鹿参謀長と握手しようとした。
「草鹿、おめでとう。よくやってくれた」そう言ったが、草鹿はすぐには手を出さなかったという。
なぜ、山本長官が自ら出向いてこないもだろう。出撃の時には、山本長官が赤城の飛行甲板に立って悲壮な激励の辞を贈ったではないか。
今、成功を収めて凱旋した時、山本長官が赤城に来て労をねぎらってくれたら、どんなに将兵もやりがいを感じたか、と草鹿参謀長は思っていた。
草鹿参謀長は言った「宇垣参謀長、長官はこられなのですか」。
「うむ、長官はな、」口ごもった後、宇垣は答えた。
「今夜は遅いので、明日来られるだろう。その前に、南雲長官に、長門に来ていただかなければならんが。まあ、おめでとう」と言った。
草鹿参謀長は「いや、天佑神助の賜物ですよ」と謙遜したが、「ありゃ何です?帰りにミッドウェイを攻撃しろというのは。作戦命令にないことを付け加えられちゃあ、困りますなあ」と言った。
すると宇垣纏参謀長は「いや、命令作第一号に出ていたはずだぞ」と応えた。
草鹿はそれに対して「あれは、敵の攻撃に対して大なる考慮を要せざる場合、という条件だったでしょう。こちらは無線封止中ですからね。もっと現地の状況を考えてもらわなければ困りますよ」と噛み付いた。
やむを得ず宇垣纏参謀長は「いや、すまんことをした」と、滅多に下げた事のない頭を下げた。
宇垣纏参謀長のそりかえり挨拶というのは軍令部時代から有名だった。下僚が挨拶すると、「やあ」と言って頭を後ろにそらせるのであった。
また、滅多に表情をくずさないので、「黄金仮面」とあだ名されていた。ちなみに宇垣纏参謀長は陸軍の宇垣一成(かずしげ)大将、海軍の宇垣莞爾中将と遠い親戚である。
宇垣は愉快でなかったとみえ、その日の日誌に「偉勲を立てて帰ってきたので、意気当たるべからず、だが、空母の二隻もなくして帰ったら、ああもゆくまい」と記している。
すると連合艦隊司令部は、機動部隊に、12月15日、ウェーキ島攻略作戦の支援を命じた。
開戦と同時にマーシャル群島のケゼリンに本部を置いた第四艦隊は、ウェーキ島の占領を試みたが、敵の抵抗は頑強だった。
空母エンタープライズが運んだグラマン戦闘機のため、第二艦隊は逆に駆逐艦二隻を撃沈されてしまったのである。
第四艦隊長官の井上成美中将は、航空部隊の援助を要請した。
南雲中将と井上中将とは、お互い大佐の時に「省部事務互渉規定改正」をめぐって「判を押さんか」「絶対に押さない」、「殺すぞ」「そんな脅しはこわくない」とやりあった、犬猿の仲であった。
それは条約派と艦隊派、軍令部と海軍省の闘いでもあった。
このような立場の南雲と井上であったが、機動部隊の南雲長官は「井上も困っているだろう。こちらはうまくいったが、向こうはウェーキ一つとれなくては、山本さんに合わせる顔もあるまい」と言って攻撃を下令した。
井上は、山本五十六が次官の時の軍務局長で、山本の秘蔵っ子である。
12月16日夕刻、南雲長官は山口多聞少将の二航戦に、八戦隊をつけて、ウェーキ再攻撃の増援を命じた。
再攻撃で、12月22日、米軍のウェーキの航空部隊を全滅させた。その結果、全島占領は成功した。
機動部隊の旗艦、空母赤城が瀬戸内海の柱島泊地に投錨したのは12月23日午後6時半であった。
赤城入港の報を聞くと、山本五十六連合艦隊司令長官は、宇垣纏参謀長を呼んで、「君、行ってきたまえ」と言った。
それは怒ったような口調であったという。いつもの悠揚迫らず、といった山本らしくもなかった。
理由は、連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間には感情敵的な対立があった。
それは真珠湾攻撃の時に始った。真珠湾に出掛ける直前までは、両者は心が通じ合っていた。
しかし、機動部隊が一応成功を収めた時から、溝は掘られ始めていた。
機動部隊には、連合艦隊司令部が何と言おうと、実際に砲火を浴びて戦果を上げたのは俺達だという自負がある。
連合艦隊司令部としては、前線が戦果を上げ得たのは連合艦隊司令部の指導よろしきを得たからだ、常に連合艦隊司令部を立てるべきだ、それを忘れるな、と言いたいのである。
柱島泊地に投錨した赤城に宇垣纏参謀長が乗り込んできたが、以上のようないきさつがあるので、あまり歓迎されなかった。
宇垣参謀長は長官公室に入ると、南雲長官にお祝いの言葉を述べ、次いで、草鹿参謀長と握手しようとした。
「草鹿、おめでとう。よくやってくれた」そう言ったが、草鹿はすぐには手を出さなかったという。
なぜ、山本長官が自ら出向いてこないもだろう。出撃の時には、山本長官が赤城の飛行甲板に立って悲壮な激励の辞を贈ったではないか。
今、成功を収めて凱旋した時、山本長官が赤城に来て労をねぎらってくれたら、どんなに将兵もやりがいを感じたか、と草鹿参謀長は思っていた。
草鹿参謀長は言った「宇垣参謀長、長官はこられなのですか」。
「うむ、長官はな、」口ごもった後、宇垣は答えた。
「今夜は遅いので、明日来られるだろう。その前に、南雲長官に、長門に来ていただかなければならんが。まあ、おめでとう」と言った。
草鹿参謀長は「いや、天佑神助の賜物ですよ」と謙遜したが、「ありゃ何です?帰りにミッドウェイを攻撃しろというのは。作戦命令にないことを付け加えられちゃあ、困りますなあ」と言った。
すると宇垣纏参謀長は「いや、命令作第一号に出ていたはずだぞ」と応えた。
草鹿はそれに対して「あれは、敵の攻撃に対して大なる考慮を要せざる場合、という条件だったでしょう。こちらは無線封止中ですからね。もっと現地の状況を考えてもらわなければ困りますよ」と噛み付いた。
やむを得ず宇垣纏参謀長は「いや、すまんことをした」と、滅多に下げた事のない頭を下げた。
宇垣纏参謀長のそりかえり挨拶というのは軍令部時代から有名だった。下僚が挨拶すると、「やあ」と言って頭を後ろにそらせるのであった。
また、滅多に表情をくずさないので、「黄金仮面」とあだ名されていた。ちなみに宇垣纏参謀長は陸軍の宇垣一成(かずしげ)大将、海軍の宇垣莞爾中将と遠い親戚である。
宇垣は愉快でなかったとみえ、その日の日誌に「偉勲を立てて帰ってきたので、意気当たるべからず、だが、空母の二隻もなくして帰ったら、ああもゆくまい」と記している。