南雲司令長官は海軍兵学校36期で山本五十六連合艦隊司令長官より4期下、山口二航戦司令官は40期で南雲より4期下だった。
しかし山口は長く連合艦隊航空司令官を勤め、航空戦の指揮には自信を持っていた。また、山口は40期を2番で卒業し、欧米勤務も長く、近代戦の指揮にも精通していた。
陸奥での図上演習の後、山口少将は、長官室にいる南雲中将のところに押しかけた。
「二航戦の飛行機を、五航戦に移すだって!」。かねて憂いていたことが、表面化したので、熱血漢の山口多聞は興奮し、逆上に近い状態になった。
山口少将は、いきなり、南雲中将の胸部を両掌でつかむと言った。「南雲、貴様、この二航戦をおいてけぼりにしようというのか」。興奮すると山口少将は上官も部下もなかった。
「おい、何をするか。何も、おいてゆくとは言っておらん。話は最後まで聞けい」柔道二段の南雲中将は毛深い山口少将の両の掌をしっかり握りながら一呼吸した。
いかに参加したい熱情があるとはいえ、この山口少将の態度は無礼である。明るみに出れば軍法会議ものである。しかし、今は忍従の時である、と南雲中将は考えた。
その時航空参謀の源田實中佐が顔を出した。南雲長官に用事があり、書類をかかえていた。
長官と司令官が取っ組み合っているのを目撃した源田中佐は一種の気迫に押されて、そのまま扉を閉めた。五十を過ぎた二人が取っ組み合いを演じていたのである。
結局山口少将の熱情が功を奏し、山口率いる二航戦も真珠湾攻撃に参加する事になった。
「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、昭和16年11月2日、真珠湾攻撃に備えて、機動部隊司令長官を兼ねる、南雲忠一第一航空艦隊司令長官は、編制による各艦を九州南端の有明湾(志布志湾)に集合せしめた。30隻に近い軍艦が集合し、投錨した。
翌11月3日(明治節)の午後1時半、南雲中将は機動部隊の各司令官、艦長、幕僚たちを旗艦の空母赤城に召集した。
将官、佐官が長官公室にあふれた。南雲中将はこの日、初めて、真珠湾奇襲攻撃の大要を発表したが、参集の高級士官たちはすでに承知していたので、驚く者はいなかった。
攻撃計画案を説明した後、南雲司令長官は訓示を行った。
「いうまでもなく、開戦と同時に行われる、この奇襲攻撃は、わが帝国の命運をも左右するものであるから、この機密保持には万全を期してもらいたい。各航空部隊は、この際一層、練度の向上に努力すべきこと。それから、これは非常に重要な事であるが」と言って南雲司令長官は息をついた。
彼は右隣に座っている二航戦司令官の山口多聞少将を意識していた。
南雲司令長官はことばをついだ。「このような重大な作戦を遂行するのに必要な事は、何よりも同志的結合である、と本長官は考える。多様な艦種、科目が集まっているのであるから、緊密な同志的結合なくしては、順調な運営は不可能である。その点をよく認識してもらいたい」
南雲司令長官はそう結んで、山口多聞司令官の方をじろりと見た。山口多聞司令官は「何をこの野郎」というような表情をしていたという。
昭和16年11月13日、真珠湾攻撃に関する連合艦隊司令部と機動部隊司令部の最後の打ち合わせの会議が、岩国航空隊の司令室で行われた。
山本五十六連合艦隊司令長官、宇垣纏参謀長、南雲忠一機動部隊司令長官、井上成美四艦隊長官、塚原二四三、清水光美六艦隊長官、細菅戊子郎五艦隊長官、近藤信竹二艦隊長官、高須四郎一艦隊長官、高橋伊望三艦隊長官らが顔をそろえた。
会議の初めに、山本司令長官が訓示を行った。そのあと会議に移った。
会議が終わり、南雲長官が立ち上がり、各艦隊の協力に感謝し、攻撃は迅速果敢、徹底的に行う旨の決意を述べた。
出席者一同は拍手を送った。一人だけ拍手をしない男がいた。山本司令長官だった。
しかし山口は長く連合艦隊航空司令官を勤め、航空戦の指揮には自信を持っていた。また、山口は40期を2番で卒業し、欧米勤務も長く、近代戦の指揮にも精通していた。
陸奥での図上演習の後、山口少将は、長官室にいる南雲中将のところに押しかけた。
「二航戦の飛行機を、五航戦に移すだって!」。かねて憂いていたことが、表面化したので、熱血漢の山口多聞は興奮し、逆上に近い状態になった。
山口少将は、いきなり、南雲中将の胸部を両掌でつかむと言った。「南雲、貴様、この二航戦をおいてけぼりにしようというのか」。興奮すると山口少将は上官も部下もなかった。
「おい、何をするか。何も、おいてゆくとは言っておらん。話は最後まで聞けい」柔道二段の南雲中将は毛深い山口少将の両の掌をしっかり握りながら一呼吸した。
いかに参加したい熱情があるとはいえ、この山口少将の態度は無礼である。明るみに出れば軍法会議ものである。しかし、今は忍従の時である、と南雲中将は考えた。
その時航空参謀の源田實中佐が顔を出した。南雲長官に用事があり、書類をかかえていた。
長官と司令官が取っ組み合っているのを目撃した源田中佐は一種の気迫に押されて、そのまま扉を閉めた。五十を過ぎた二人が取っ組み合いを演じていたのである。
結局山口少将の熱情が功を奏し、山口率いる二航戦も真珠湾攻撃に参加する事になった。
「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、昭和16年11月2日、真珠湾攻撃に備えて、機動部隊司令長官を兼ねる、南雲忠一第一航空艦隊司令長官は、編制による各艦を九州南端の有明湾(志布志湾)に集合せしめた。30隻に近い軍艦が集合し、投錨した。
翌11月3日(明治節)の午後1時半、南雲中将は機動部隊の各司令官、艦長、幕僚たちを旗艦の空母赤城に召集した。
将官、佐官が長官公室にあふれた。南雲中将はこの日、初めて、真珠湾奇襲攻撃の大要を発表したが、参集の高級士官たちはすでに承知していたので、驚く者はいなかった。
攻撃計画案を説明した後、南雲司令長官は訓示を行った。
「いうまでもなく、開戦と同時に行われる、この奇襲攻撃は、わが帝国の命運をも左右するものであるから、この機密保持には万全を期してもらいたい。各航空部隊は、この際一層、練度の向上に努力すべきこと。それから、これは非常に重要な事であるが」と言って南雲司令長官は息をついた。
彼は右隣に座っている二航戦司令官の山口多聞少将を意識していた。
南雲司令長官はことばをついだ。「このような重大な作戦を遂行するのに必要な事は、何よりも同志的結合である、と本長官は考える。多様な艦種、科目が集まっているのであるから、緊密な同志的結合なくしては、順調な運営は不可能である。その点をよく認識してもらいたい」
南雲司令長官はそう結んで、山口多聞司令官の方をじろりと見た。山口多聞司令官は「何をこの野郎」というような表情をしていたという。
昭和16年11月13日、真珠湾攻撃に関する連合艦隊司令部と機動部隊司令部の最後の打ち合わせの会議が、岩国航空隊の司令室で行われた。
山本五十六連合艦隊司令長官、宇垣纏参謀長、南雲忠一機動部隊司令長官、井上成美四艦隊長官、塚原二四三、清水光美六艦隊長官、細菅戊子郎五艦隊長官、近藤信竹二艦隊長官、高須四郎一艦隊長官、高橋伊望三艦隊長官らが顔をそろえた。
会議の初めに、山本司令長官が訓示を行った。そのあと会議に移った。
会議が終わり、南雲長官が立ち上がり、各艦隊の協力に感謝し、攻撃は迅速果敢、徹底的に行う旨の決意を述べた。
出席者一同は拍手を送った。一人だけ拍手をしない男がいた。山本司令長官だった。