ソ連にはゲーペーウーがあり、ナチスドイツにはゲシュタポがあった。日本では憲兵が全体主義国家の反対勢力を封殺するための役割を果たした。
憲兵がその本来の任務を離れて政治的に活動し始めたのは、昭和6年12月に荒木貞夫氏が陸軍大臣になってからである。
時の憲兵司令官は秦貞次陸軍中将であった。秦中将は荒木大臣と真崎甚三郎参謀次長の寵児であった。
憲兵は宇垣系の軍人、政治家の行動を監視し、憲兵隊に拘留して威嚇した。
「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、田中大佐が昭和13年12月来兵務課長に就任した時、多田参謀次長と東條陸軍次官の大喧嘩があった。
支那事変解決のためには、対ソ、対英米作戦をも辞せずと主張する東條陸軍次官。
いかなる手段を以ってしても支那事変を急速に解決せざれば、日本の将来は危うしと主張する多田参謀次長。
この二人は最後までともに譲らず、とうとう意見の相違が感情の衝突までに発展してしまった。
結局、多田参謀次長、東條陸軍次官は、ともに中央を去ることになった。これは当時の板垣陸軍大臣の喧嘩両成敗の結果であった。
部内の空気は東條次官に共鳴するものが多く、東條次官の転出に多大な不平を抱いていた。
その結果、多田参謀次長と主張を同じうする板垣陸相には、今後敬礼を行わずと称する乱暴きわまる幕僚連中も出て来た。
もう一件は石原莞爾中将問題であった。左翼の大物、浅原健三氏は石原中将と仲が良く、多田中将、板垣陸相とも交わりが深かった。
浅原氏は東京憲兵隊に拘束され取調べ中であった。浅原氏は林銑十郎内閣成立の裏面の立役者でもあった。
浅原氏の取調べは昭和14年4月に終わった。その要点は、多田次長、特に石原中将は共産主義者たる浅原氏に利用せられ、共産革命を行わんとしたという点であった。
当時石原中将は徹底した支那よりの即時撤兵論者である。重慶政権の武力による撃滅を叫ぶ中央の中堅将校は石原中将の意見を好まない。
浅原事件を理由に石原中将の徹底処罰を要望する者が多かった。東條中将は次官から航空総監に転出後も兵務課長の田中大佐にに対し執拗に石原中将の要求し続けた。
事件の調査は憲兵の直接監督者たる防衛課長の渡辺大佐により行われた。調査の結果、大部分が虚構の事実と判明した。
7月に入ってノモンハン事件が重大化し浅原事件は忘れられた形になった。
田中大佐は、この機に問題を解決しようと兵務局長・中村明人中将と協議した。
その結果「たとえ浅原事件が虚構のものとしても、石原中将に、軍人として不謹慎な言動があった。故に最も軽き処分にして事件を解決し将来に禍を残さぬほうが穏当である」との趣旨を板垣陸相に進言した。
ところが板垣大臣は血相を変えて「何たる事を言う。こういう陰謀は許されない。こういう陰謀を行った者はそれが、航空総監たると、憲兵隊長たるとを問わず、断固としてくび馘首する」と頭から田中大佐を叱りつけた。
田中大佐は「今、この処分をしないと、将来再燃する」と言って退去した。
憲兵がその本来の任務を離れて政治的に活動し始めたのは、昭和6年12月に荒木貞夫氏が陸軍大臣になってからである。
時の憲兵司令官は秦貞次陸軍中将であった。秦中将は荒木大臣と真崎甚三郎参謀次長の寵児であった。
憲兵は宇垣系の軍人、政治家の行動を監視し、憲兵隊に拘留して威嚇した。
「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、田中大佐が昭和13年12月来兵務課長に就任した時、多田参謀次長と東條陸軍次官の大喧嘩があった。
支那事変解決のためには、対ソ、対英米作戦をも辞せずと主張する東條陸軍次官。
いかなる手段を以ってしても支那事変を急速に解決せざれば、日本の将来は危うしと主張する多田参謀次長。
この二人は最後までともに譲らず、とうとう意見の相違が感情の衝突までに発展してしまった。
結局、多田参謀次長、東條陸軍次官は、ともに中央を去ることになった。これは当時の板垣陸軍大臣の喧嘩両成敗の結果であった。
部内の空気は東條次官に共鳴するものが多く、東條次官の転出に多大な不平を抱いていた。
その結果、多田参謀次長と主張を同じうする板垣陸相には、今後敬礼を行わずと称する乱暴きわまる幕僚連中も出て来た。
もう一件は石原莞爾中将問題であった。左翼の大物、浅原健三氏は石原中将と仲が良く、多田中将、板垣陸相とも交わりが深かった。
浅原氏は東京憲兵隊に拘束され取調べ中であった。浅原氏は林銑十郎内閣成立の裏面の立役者でもあった。
浅原氏の取調べは昭和14年4月に終わった。その要点は、多田次長、特に石原中将は共産主義者たる浅原氏に利用せられ、共産革命を行わんとしたという点であった。
当時石原中将は徹底した支那よりの即時撤兵論者である。重慶政権の武力による撃滅を叫ぶ中央の中堅将校は石原中将の意見を好まない。
浅原事件を理由に石原中将の徹底処罰を要望する者が多かった。東條中将は次官から航空総監に転出後も兵務課長の田中大佐にに対し執拗に石原中将の要求し続けた。
事件の調査は憲兵の直接監督者たる防衛課長の渡辺大佐により行われた。調査の結果、大部分が虚構の事実と判明した。
7月に入ってノモンハン事件が重大化し浅原事件は忘れられた形になった。
田中大佐は、この機に問題を解決しようと兵務局長・中村明人中将と協議した。
その結果「たとえ浅原事件が虚構のものとしても、石原中将に、軍人として不謹慎な言動があった。故に最も軽き処分にして事件を解決し将来に禍を残さぬほうが穏当である」との趣旨を板垣陸相に進言した。
ところが板垣大臣は血相を変えて「何たる事を言う。こういう陰謀は許されない。こういう陰謀を行った者はそれが、航空総監たると、憲兵隊長たるとを問わず、断固としてくび馘首する」と頭から田中大佐を叱りつけた。
田中大佐は「今、この処分をしないと、将来再燃する」と言って退去した。