陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

55.田中隆吉陸軍少将(5) 田中は次第に反武藤と同時に反東條となった

2007年04月06日 | 田中隆吉陸軍少将
 元々田中は東條の推挙で兵務局長に就任した。両者の関係はある時期まで極めて緊密なものがあった。田中こそは東條の憲兵政治の一翼を担った一人とされている。

 派閥次元でいうなら、田中は統制派の系列に属し、武藤章とともに東條の懐刀的存在であった。

 だが時と共に田中と武藤の意見は対立して行き、確執となった。それが表面化したとき、田中は次第に反武藤と同時に反東條となった。

 田中は「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)の序のはじめに「私は軍人の落伍者である」と述べている。

 昭和13年12月から17年9月まで4年間、田中は陸軍省兵務課長、兵務局長として、軍の中央にいた。これは支那事変の中期以降と太平洋戦争の初期にあたる。

 田中は冷静に仔細に軍中枢部の動きを眺めており、それらを、東京裁判と著作で暴露した。

 田中は兵務課長と兵務局長の間に、昭和15年1月に陸軍少将に昇任し3月、中国山西の第1軍参謀長に就任している。

 そのとき、田中は日支事変の解決のため裏工作を行い、11月下旬に敵の司令官と接触するところまで漕ぎ着けていた。

 丁度その時、杉山、畑両大将が相次いで山西に視察に来て、田中に12月初旬、兵務局長に転任し陸軍省に帰る予定である事を告げた。

 田中は当惑した。田中が兵務課長のとき部内を騒がした浅原事件が東條陸相の登場により、東條陸相が満州派である板垣、多田両大将と石原中将を中心とするグループに対する圧迫を加え部内が混乱していた。

 田中少将は南京にいた板垣大将に相談した。板垣大将は日支事変解決工作の中途であり残念だが、陸軍の統制のため渾身の努力をするよう田中を激励した。

 田中は工作を急ぐ事にし、全力を尽くしていたが、12月1日、東條陸相から電報が来て、至急陸軍省に帰るよう命令が来た。

 田中は心ならずも内地帰還の途についた。列車の中に同乗した将校が、将官たる田中に敬礼を行わないのが多いのを見た田中少将は日本軍の軍紀も支那軍と同様になったと思った。

 12月10日東京に帰ると田中少将は、その足で、大正14年来親しい間柄である阿南陸軍次官を訪ねた。

 田中少将は阿南次官に「なぜ過早に私を兵務局長に転補せられたか」と言った。

 阿南次官は「自分も君が怒ると思い、大臣に対し時期尚早なりと進言したが、大臣が独断で決めてしまった。部内は石原中将の問題や、北部仏印進駐の際に於ける独断越境問題で相当にゴタゴタしている」と述べた。

 さらに「大臣は君を警戒し信用していないが、この際君の持つ力が欲しいのだ。大臣は極めて感情的だから大に注意を要する。僕もつくづく嫌になったから近く次官をやめて第一線に出るつもりだ」とも言った。

 さらに後日、阿南次官は田中少将を呼んで「大臣にも困る。憲兵に対し、直接自ら命令して之を濫用する」と言った。