昭和九年八月の異動で、林陸軍大臣は、真崎色を一掃しようと、思い切った人事案を立案した。林陸軍大臣がここまで強硬策を断行しようというのは、永田軍務局長ら統制派幕僚の突き上げだった。
陸軍将官の異動は、陸軍大臣の原案を参謀総長、教育総監と、いわゆる三長官の協議の上で決定する習慣になっていた。
当時は参謀総長が閑院宮載仁親王・元帥陸軍大将なので、陸軍大臣、教育総監の間で内定したものを、閑院宮元帥参謀総長に見せて了承をもらっていた。
柳川平助次官の第一師団長(東京)転出は、さすがに、林陸軍大臣も真崎教育総監に遠慮して行った人事だった。本当は東京以外に飛ばしかったのだ。真崎教育総監も承服した。
だが、林陸軍大臣と真崎教育総監が正面から対立したのが憲兵司令官・秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・陸軍省新聞班長・陸軍大学校兵学教官・歩兵大佐・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)の第二師団長転出案だった。
秦中将は真崎教育総監の最も忠実な子分で、憲兵司令官として反真崎派の将官に対して徹底的内偵を行なってきたのだった。
林陸軍大臣でさえ、護衛名義で付けられた憲兵に追い回され、重要な電話は自宅からもかけられなかった。
閑院宮元帥参謀総長は、反真崎派の巨頭だから、閑院宮元帥の別当、稲垣三郎(いながき・さぶろう)中将(島根・陸士二・陸大一三恩賜・騎兵第一連隊長・騎兵大佐・英国大使館附武官・少将・騎兵第一旅団長・浦塩派遣軍参謀長・中将・国際連盟陸軍代表・予備役・閑院宮宮務監督・閑院宮別当)も秦中将の憲兵に追い回された。
真崎教育総監は、秦中将の異動に反対していた。秦中将を憲兵司令官として中央に置き、自分の手足となって、統制派幕僚を監視させるつもりだった。だが、林陸軍大臣の「秦中将を第二師団長にする」という案に最終的に同意した。
昭和九年十一月に、クーデター未遂事件である「十一月事件」(陸軍士官学校事件)が起きた。
陸軍士官学校の佐藤候補生が仲間を誘って当時皇道派の青年将校運動の中心的人物、磯部浅一一等主計(野砲第一連隊附)と村中孝次歩兵大尉(歩兵第二六連隊大隊副官)の両氏を歴訪して国家革新について話し合っていた。
そのうちに、両氏にクーデター計画の腹案があるのを知り、佐藤候補生は陸軍士官学校の本科生徒隊第一中隊長・辻政信大尉にその計画内容を報告した。
辻政信大尉は、佐藤候補生に対して、クーデター計画に参加するように指示し、「内偵、報告せよ」と命じ、一種のスパイ行為を行わせた。
佐藤候補生の報告を受けて、辻政信大尉は、懇意の参謀本部部員・片倉衷少佐にそのクーデター計画を報告した。片倉少佐は、陸軍次官・橋本虎之助中将に報告した。
その結果、憲兵隊は、磯部一等主計、村中歩兵大尉、陸軍士官学校予科区隊長・片岡太郎中尉と、佐藤候補生以下五名の士官候補生を逮捕した。
第一師団軍法会議で、磯部一等主計、村中歩兵大尉は停職、五名の士官候補生は退校処分となった。辻政信大尉は水戸の第二歩兵連隊附に左遷された。
停職になった磯部一等主計、村中歩兵大尉は、その後も怪文書により林陸軍大臣や中央幕僚の攻撃を行ったため、遂に免官処分となった。
片倉衷氏の証言によれば、この事件の報告は、辻大尉→片倉少佐→橋本中将の線で直線的に行われ、永田軍務局長は当時片倉少佐と隷属関係もなく、この事件に介入する余地はなかった。
だが、「この二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ」と、永田軍務局長は、青年将校ら皇道派の怒りを買ったのである。
昭和十年二月十八日、天皇機関説問題が浮上して来た。貴族院本会議で、美濃部達吉議員の天皇機関説が国体に背く学説であるとして、天皇機関説排撃を決議した。
二月二十五日、美濃部議員は天皇機関説を解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こった。だが、議会の外では右翼団体や在郷軍人会が抗議した。美濃部議員の釈明演説が新聞に掲載されると、軍部や右翼の攻撃は増幅した。
陸軍将官の異動は、陸軍大臣の原案を参謀総長、教育総監と、いわゆる三長官の協議の上で決定する習慣になっていた。
当時は参謀総長が閑院宮載仁親王・元帥陸軍大将なので、陸軍大臣、教育総監の間で内定したものを、閑院宮元帥参謀総長に見せて了承をもらっていた。
柳川平助次官の第一師団長(東京)転出は、さすがに、林陸軍大臣も真崎教育総監に遠慮して行った人事だった。本当は東京以外に飛ばしかったのだ。真崎教育総監も承服した。
だが、林陸軍大臣と真崎教育総監が正面から対立したのが憲兵司令官・秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・陸軍省新聞班長・陸軍大学校兵学教官・歩兵大佐・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)の第二師団長転出案だった。
秦中将は真崎教育総監の最も忠実な子分で、憲兵司令官として反真崎派の将官に対して徹底的内偵を行なってきたのだった。
林陸軍大臣でさえ、護衛名義で付けられた憲兵に追い回され、重要な電話は自宅からもかけられなかった。
閑院宮元帥参謀総長は、反真崎派の巨頭だから、閑院宮元帥の別当、稲垣三郎(いながき・さぶろう)中将(島根・陸士二・陸大一三恩賜・騎兵第一連隊長・騎兵大佐・英国大使館附武官・少将・騎兵第一旅団長・浦塩派遣軍参謀長・中将・国際連盟陸軍代表・予備役・閑院宮宮務監督・閑院宮別当)も秦中将の憲兵に追い回された。
真崎教育総監は、秦中将の異動に反対していた。秦中将を憲兵司令官として中央に置き、自分の手足となって、統制派幕僚を監視させるつもりだった。だが、林陸軍大臣の「秦中将を第二師団長にする」という案に最終的に同意した。
昭和九年十一月に、クーデター未遂事件である「十一月事件」(陸軍士官学校事件)が起きた。
陸軍士官学校の佐藤候補生が仲間を誘って当時皇道派の青年将校運動の中心的人物、磯部浅一一等主計(野砲第一連隊附)と村中孝次歩兵大尉(歩兵第二六連隊大隊副官)の両氏を歴訪して国家革新について話し合っていた。
そのうちに、両氏にクーデター計画の腹案があるのを知り、佐藤候補生は陸軍士官学校の本科生徒隊第一中隊長・辻政信大尉にその計画内容を報告した。
辻政信大尉は、佐藤候補生に対して、クーデター計画に参加するように指示し、「内偵、報告せよ」と命じ、一種のスパイ行為を行わせた。
佐藤候補生の報告を受けて、辻政信大尉は、懇意の参謀本部部員・片倉衷少佐にそのクーデター計画を報告した。片倉少佐は、陸軍次官・橋本虎之助中将に報告した。
その結果、憲兵隊は、磯部一等主計、村中歩兵大尉、陸軍士官学校予科区隊長・片岡太郎中尉と、佐藤候補生以下五名の士官候補生を逮捕した。
第一師団軍法会議で、磯部一等主計、村中歩兵大尉は停職、五名の士官候補生は退校処分となった。辻政信大尉は水戸の第二歩兵連隊附に左遷された。
停職になった磯部一等主計、村中歩兵大尉は、その後も怪文書により林陸軍大臣や中央幕僚の攻撃を行ったため、遂に免官処分となった。
片倉衷氏の証言によれば、この事件の報告は、辻大尉→片倉少佐→橋本中将の線で直線的に行われ、永田軍務局長は当時片倉少佐と隷属関係もなく、この事件に介入する余地はなかった。
だが、「この二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ」と、永田軍務局長は、青年将校ら皇道派の怒りを買ったのである。
昭和十年二月十八日、天皇機関説問題が浮上して来た。貴族院本会議で、美濃部達吉議員の天皇機関説が国体に背く学説であるとして、天皇機関説排撃を決議した。
二月二十五日、美濃部議員は天皇機関説を解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こった。だが、議会の外では右翼団体や在郷軍人会が抗議した。美濃部議員の釈明演説が新聞に掲載されると、軍部や右翼の攻撃は増幅した。