だが、昭和天皇は、天皇機関説に賛同していた。昭和天皇は、侍従武官長・本庄繁(ほんじょう・しげる)大将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・参謀本部付・張作霖顧問・少将・歩兵第四旅団長・在支那公使館附武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・侍従武官長・大将・男爵・功一級・予備役・軍事保護院総裁・枢密顧問官・終戦・戦犯指名・自決・正三位・勲一等)に、次のように意見を述べた。
「軍の配慮は、自分にとって精神的にも迷惑至極だ。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招く。だから、それについては慎重に考えてもらいたい」
「私自身は、天皇主権説も天皇機関説も、帰するところは同一であると思っているが、労働条約その他債権問題のような国際関係についての事項は、機関説に従う方が便利ではないかと思う」
「憲法第四条による『天皇は国民の元首』という言葉は、いうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば、憲法そのものを改正しなければならぬ」
「機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は、一応もっとものように聞こえるが、しかし事実は、このようなことを論議することこそ、皇室の尊厳を冒涜するものだ」。
当時の岡田啓介首相は、この宮中方面の思召しと、軍部を先頭とする機関説排撃―国体明徴運動との板挟みにあって、態度を決しかねていた。
真崎甚三郎教育総監は、陸軍三長官協議の結果、陸軍の立場を表明する必要があるとして、教育担当である教育総監・真崎甚三郎の名において、天皇機関説排撃の声明書を発表した。
最終的に、政府は陸軍の要求をのみ、議会終了後に美濃部議員の取調べを警察に指示、美濃部議員の出版物三冊を発禁処分とした。その後、美濃部議員は貴族院議員を辞職した。
ところが、真崎甚三郎教育総監が天皇機関説排撃の声明書を発表したことが、元老・重臣をはじめ、機関説を盲信する官僚・政治家たちをして、「真崎恐るべし」として、真崎排撃に拍車をかけることになったのである。
昭和十年八月の異動がやってきた。林大将が陸軍大臣になって以来、昭和九年三月から三回の陸軍定期異動をおこなっているが、人事問題については、ことごとく真崎教育総監の横やりがあった。
「二・二六事件 第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、林大将は、部内から皇道派分子の一掃をめざしていたが、その都度真崎教育総監の抵抗に遇い、その大半の意図がつぶされていた。また、林大将が何か気に入らないことを言えば、真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させたものである。
林陸軍大臣は、この八月の異動で思い切った人事案を出した。秦真次第二師団長を待命、柳川平助第一師団長を予備役編入、山岡重厚整備局長を第九師団長、山下奉文軍事調査部長を朝鮮に転出、鈴木率道作戦課長を地方に、堀丈夫航空本部長を第一師団長に移動させるという徹底した皇道派の壊滅案だった。
林陸軍大臣がこのような思い切った異動案を決意した背景には、天皇機関説問題をはじめとする、真崎教育総監の強硬な姿勢に、宮中も政府も政党も財界も不安を持っていることがあった。
また、軍事参議官・渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)大将(愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ公使館附武官・少将・歩兵第二九旅団長・参謀本部第四部長・陸軍大学校兵学教官・中将・陸軍大学校長・第七師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・教育総監・二二六事件で暗殺)の援助があった。
林陸軍大臣は事前に渡辺大将を訪ねて、この人事案を巡る部内皇道派の猛烈な抵抗を報告し、協議した。
渡辺大将は、「もはやこの場合は断の一字あるのみ」だと林陸軍大臣を激励した。そして真崎教育総監があくまで反対するなら「その教育総監を解任すべし」と意見を言った。
林陸軍大臣が今回の異動案を真崎教育総監に内示したところ、はたして真崎教育総監は、「軍事参議官・菱刈隆大将、軍事参議官・松井石根大将、関東軍司令官・南次郎大将、軍事参議官・渡辺錠太郎大将、軍事参議官・阿部信行大将を待命にせよ」と、迫った。
さらに、「第五師団長小磯国昭中将、第一〇師団長・建川美次中将もクビにしろ」と、真崎教育総監は言い出した。また、「秦真次第二師団長の待命、柳川平助第一師団長の予備役編入には絶対反対」と、言い出した。
また、この人事案が真崎教育総監の口から皇道派の将校等に洩れたので、彼らは騒ぎ立て、この林陸軍大臣の人事案の粉砕に躍起となった。
この様な状況から、林陸軍大臣もいよいよ、真崎教育総監と袂を別つ決心をした。その支柱となったのは、参謀総長・閑院宮元帥だった。
それに、参謀次長・植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・騎兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官・予備役・戦後日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長)だった。
さらに渡辺錠太郎大将と永田鉄山軍務局長ら統制派幕僚の後押しもあった。
「軍の配慮は、自分にとって精神的にも迷惑至極だ。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招く。だから、それについては慎重に考えてもらいたい」
「私自身は、天皇主権説も天皇機関説も、帰するところは同一であると思っているが、労働条約その他債権問題のような国際関係についての事項は、機関説に従う方が便利ではないかと思う」
「憲法第四条による『天皇は国民の元首』という言葉は、いうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば、憲法そのものを改正しなければならぬ」
「機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は、一応もっとものように聞こえるが、しかし事実は、このようなことを論議することこそ、皇室の尊厳を冒涜するものだ」。
当時の岡田啓介首相は、この宮中方面の思召しと、軍部を先頭とする機関説排撃―国体明徴運動との板挟みにあって、態度を決しかねていた。
真崎甚三郎教育総監は、陸軍三長官協議の結果、陸軍の立場を表明する必要があるとして、教育担当である教育総監・真崎甚三郎の名において、天皇機関説排撃の声明書を発表した。
最終的に、政府は陸軍の要求をのみ、議会終了後に美濃部議員の取調べを警察に指示、美濃部議員の出版物三冊を発禁処分とした。その後、美濃部議員は貴族院議員を辞職した。
ところが、真崎甚三郎教育総監が天皇機関説排撃の声明書を発表したことが、元老・重臣をはじめ、機関説を盲信する官僚・政治家たちをして、「真崎恐るべし」として、真崎排撃に拍車をかけることになったのである。
昭和十年八月の異動がやってきた。林大将が陸軍大臣になって以来、昭和九年三月から三回の陸軍定期異動をおこなっているが、人事問題については、ことごとく真崎教育総監の横やりがあった。
「二・二六事件 第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、林大将は、部内から皇道派分子の一掃をめざしていたが、その都度真崎教育総監の抵抗に遇い、その大半の意図がつぶされていた。また、林大将が何か気に入らないことを言えば、真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させたものである。
林陸軍大臣は、この八月の異動で思い切った人事案を出した。秦真次第二師団長を待命、柳川平助第一師団長を予備役編入、山岡重厚整備局長を第九師団長、山下奉文軍事調査部長を朝鮮に転出、鈴木率道作戦課長を地方に、堀丈夫航空本部長を第一師団長に移動させるという徹底した皇道派の壊滅案だった。
林陸軍大臣がこのような思い切った異動案を決意した背景には、天皇機関説問題をはじめとする、真崎教育総監の強硬な姿勢に、宮中も政府も政党も財界も不安を持っていることがあった。
また、軍事参議官・渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)大将(愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ公使館附武官・少将・歩兵第二九旅団長・参謀本部第四部長・陸軍大学校兵学教官・中将・陸軍大学校長・第七師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・教育総監・二二六事件で暗殺)の援助があった。
林陸軍大臣は事前に渡辺大将を訪ねて、この人事案を巡る部内皇道派の猛烈な抵抗を報告し、協議した。
渡辺大将は、「もはやこの場合は断の一字あるのみ」だと林陸軍大臣を激励した。そして真崎教育総監があくまで反対するなら「その教育総監を解任すべし」と意見を言った。
林陸軍大臣が今回の異動案を真崎教育総監に内示したところ、はたして真崎教育総監は、「軍事参議官・菱刈隆大将、軍事参議官・松井石根大将、関東軍司令官・南次郎大将、軍事参議官・渡辺錠太郎大将、軍事参議官・阿部信行大将を待命にせよ」と、迫った。
さらに、「第五師団長小磯国昭中将、第一〇師団長・建川美次中将もクビにしろ」と、真崎教育総監は言い出した。また、「秦真次第二師団長の待命、柳川平助第一師団長の予備役編入には絶対反対」と、言い出した。
また、この人事案が真崎教育総監の口から皇道派の将校等に洩れたので、彼らは騒ぎ立て、この林陸軍大臣の人事案の粉砕に躍起となった。
この様な状況から、林陸軍大臣もいよいよ、真崎教育総監と袂を別つ決心をした。その支柱となったのは、参謀総長・閑院宮元帥だった。
それに、参謀次長・植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・騎兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官・予備役・戦後日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長)だった。
さらに渡辺錠太郎大将と永田鉄山軍務局長ら統制派幕僚の後押しもあった。