陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

89.宇垣纏海軍中将(9) 右手に山本元帥から贈られた短剣を握っていた

2007年12月07日 | 宇垣纏海軍中将
 宇垣隊戦死者の処遇の差はなぜ生じたのか。8月15日の正午に天皇の終戦の玉音放送があった。

  しかし法的には軍の行動を律するのは大本営命令、停戦を命じる大海令四八号が示達されたのは16日午後4時だった。それまでは日米両軍は戦闘状態にあったわけで大命違反、抗命行為とは談じられない。

 だが、14日の夕方、大本営海軍部は小沢海軍総隊兼連合艦隊司令長官に「何分の令あるまで対米英蘇支積極作戦は之を見合はすべし」(大海令四七号)という命令を発している。

 総隊はこれを受けて、夜半に宇垣第五航空艦隊長官に「対ソ、対沖縄積極攻撃を中止セヨ」と命じているから、沖縄突入は宇垣長官の抗命的行動と解釈できる。

 では宇垣長官の沖縄特攻の経過はどのようなものであったのか。「八月十五日の空」(文春文庫)によると、昭和20年8月15日正午、終戦の玉音放送が行われた。

 第五航空艦隊司令部は鹿屋から大分に後退していた。先任参謀、宮崎隆大佐が幕僚室に入っていくと当直の田中武克参謀が当惑しきっていた。

 さきほど宇垣長官に呼ばれ艦爆隊を直率して沖縄へ出撃するから彗星五機を用意するように言われたというのであった。

中央部の方針は正午の玉音放送で終戦が確定する形勢と思われた。なんとしても思いとどまっていただくなくてはならぬ。宮崎大佐は長官室に入っていった。

 宮崎大佐が長官室に入ると宇垣長官は端然と椅子に腰を下ろしていた。前夜から一睡もせず、その姿勢でいたと思われた。

 「長官、当直参謀に命じられたのはどういう意味ですか」と聞くと

 「それは君わかっているじゃないか」

 「はあ」

 「長官が乗って攻撃に行くから、それを命じたまえ」

 「ご決心は良く分かりますが、御再考ねがえないでしょうか」

 「ともかく命令を起案したまえ」

 柔和だがテコでも動かない長官のシンにふれた気がした。こうして宇垣長官の沖縄特攻の正式命令が起案され、発せられた。

 午後四時半、宇垣長官は三台の車をつらねて大分基地の飛行場へ向かった。宇垣長官は双眼鏡を首にかけ、薄緑色の第三種軍装と戦闘帽を着用し、右手に山本元帥から贈られた短剣を握っていた。

 すでに海軍中将の階級章は、副官の川原利寿参謀の手で切り取られていた。

 飛行場には十一機の彗星四三型が並び、飛行帽のうえに日の丸の鉢巻をきりりと締めた二十二名の搭乗員が整列していた。

 宇垣長官が「命令では五機のはずだが」と言いかけると、先頭の分隊長、中津留達雄大尉が

 「長官が特攻をかけられるというのに、たった五機とは何事でありますか。私の隊は全機でお伴します」ときっぱりと言った。

 「そうかみんな俺と一緒に行ってくれるか」「は~い」二十二人の隊員の右手がいっせいに上がった。

 こうして十一機の彗星は午後五時から五時半にかけて、800キロ爆弾を抱いて一機づつ次々に飛び上がっていった。  

 宇垣長官が乗り込んだ中津留大尉機には、偵察員の遠藤秋章飛曹長もどうしても行くと頑張り、結局三人が乗り込んでいた。

 午後八時二十五分、指揮官機の宇垣長官機から「我奇襲に成功せり」続いて突入電入電、次々に突入電が第五航空艦隊司令部に入ってきた。

  「我奇襲に成功せり」は「トラトラトラ」で、宇垣長官は真珠湾攻撃と同じ暗号電報を発した。突入電というのは偵察員は敵艦船に突入するため急降下に入った時点から無線機のキーを押しっぱなしにする。激突した時点で発信音は途切れる。

 結局十一機のうち、八機が突入し、三機が引き返して不時着した。

 ところが、「米海軍日誌」「S・E・モリソンの「第二次大戦米海軍作戦史」のいずれにも、宇垣特攻隊の戦果は記されていない。