藍那に、小川洋子さんの『アンネ・フランクの記憶』という本を渡しました。彼女は、小川さんの『博士が愛した数式』が好きだったので。『アンネ・フランクの記憶』は小説ではないので、楽しむかどうかの確信はなかったのですが・・・読み終わった彼女が、アウシュビッツ関連の資料が見たいと言いだしたので、それなりに得るものがあったのだと思います。よかった(^^)。
で、家にあるナチス関連の書物、特に写真が多く掲載されているものを見繕って渡しました。と、彼女は、なかなか熱心に見ていました。
それを横から覗き見て・・・自分が買った本なのに「お~、すごいなぁ」と感心してしまいました。なんていうか・・・写真が伝える事柄の鮮烈さに驚いたのです。
わたしは、どちらかというと、言葉で思いを伝えることが多いわけで・・・そういう意味では、言葉の可能性というのを信じているのですが・・・写真には、言葉とはまた違う力と可能性があるということを、改めて感じました。
なんていうんだろう・・・写真にも、もちろん、その写真を撮った人の意志や、その写真を採用した人の意図というのがあるのだけれど・・・それも含みこんで、見る人と、撮られた被写体とが、より直接対峙する緊張感があるような気がします。
言葉の場合は、表現されているもの自体と読む人が対峙するというより、表現されているものと表現している人との対峙を、読む人に感じてもらうことになる場合が多いのですが、写真は、より撮られているものと、撮られたものを見ている人の距離が、近いように思うんですよね。
それぞれに良さがあるわけで・・・どちらが良いということではないのですが、そんな感じがするんですよね・・・やっぱり、写真、もっと頑張りたいなって思いました(^^)。
で、家にあるナチス関連の書物、特に写真が多く掲載されているものを見繕って渡しました。と、彼女は、なかなか熱心に見ていました。
それを横から覗き見て・・・自分が買った本なのに「お~、すごいなぁ」と感心してしまいました。なんていうか・・・写真が伝える事柄の鮮烈さに驚いたのです。
わたしは、どちらかというと、言葉で思いを伝えることが多いわけで・・・そういう意味では、言葉の可能性というのを信じているのですが・・・写真には、言葉とはまた違う力と可能性があるということを、改めて感じました。
なんていうんだろう・・・写真にも、もちろん、その写真を撮った人の意志や、その写真を採用した人の意図というのがあるのだけれど・・・それも含みこんで、見る人と、撮られた被写体とが、より直接対峙する緊張感があるような気がします。
言葉の場合は、表現されているもの自体と読む人が対峙するというより、表現されているものと表現している人との対峙を、読む人に感じてもらうことになる場合が多いのですが、写真は、より撮られているものと、撮られたものを見ている人の距離が、近いように思うんですよね。
それぞれに良さがあるわけで・・・どちらが良いということではないのですが、そんな感じがするんですよね・・・やっぱり、写真、もっと頑張りたいなって思いました(^^)。
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