OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

組織のトップの罪と罰

2010-10-11 14:26:06 | Weblog
写真は、金木犀の花が散っている様です。一気に咲いて、一気に散る・・・桜以上に潔い気がしますが、桜ほど愛でられないのは何故でしょうね(^^;。

ところで・・・福知山線の脱線事故に関して経営陣の罪を問う裁判とか、明石の花火大会の時の歩道橋の事故の時の明石市や明石警察の管理者の罪を問う裁判とか・・・そういうタイプの訴訟のニュースなどを見ていると、被害者の方や被害者遺族の方の、やり場のない怒りとか悲しみというのを感じますよね。

明確な加害者がいない・・・あるいは直接的な加害者が死亡している・・・一個人を罰して済ませるにはあまりにも事故の規模が大きい・・・など、いろんな理由から、受けた傷を癒す術を見つけられないでいらっしゃるのでしょうね。

もちろん、明確な加害者がいて、その加害者が生存したとしても、受けた傷は簡単に癒えるものではないでしょうが・・・少なくても、怒りの矛先はハッキリしていますが・・・それすら曖昧にされてしまっていては、何をどうすればいいかも分からなくなりますものね。

だから、一個人の受けた被害という発想を越えて、社会的な問題と捉えて、今後、同じような悲惨な事故が起こらないように、そのために活動されているのかなと・・・かろうじて、それで自らの崩れそうな気持ちを支えていらっしゃるのかなと思います。

ただ・・・思うのですが・・・責任っていったい何なのでしょうね・・・

わたし、福知山線の脱線事故に関してはJR西日本の経営陣に責任はあると思います。わたしは、経営者というものは、もっぱら責任をとる役目の人間だと思っていますから、会社で何かが起こった際に、その詳細を知っていようと知っていなかろうと、経緯に加担していようといなかろうと、責任はあると思っていますから。

だから、当然、花火大会の時の歩道橋事故においても、明石市や明石警察のトップには責任があると思っています。

ただ、その責任は、禁固刑になるような、直接の加害者が科せられるべき罰によって贖われるわけではない気はするんですよね。イメージとしては、社会奉仕的な罰が相応しいような・・・そんな気がするんです。

もちろん、個人として何日か公園のゴミ拾いをするというようなことではないですよ。その組織自体に社会奉仕的なペナルティーが科せられ、それを率先して行う担当者として責任者が働くべきとでももいいましょうか・・・。

うまく言えないのですが・・・今の裁判って、刑事事件と民事事件・・・刑事事件では、罰金とか執行猶予があるにせよ、基本的には罰の形って禁固刑でしょ。で、民事事件の場合は損害賠償とか慰謝料的な金銭での贖いでしょ。なんかその間とでもいいますか・・・ちょっと別の次元とでもいいましょうか・・・組織の責任者の責任、その罪と罰を考える、そういう視点があるべきなんじゃないかなと・・・そんなことも考えたのでした。

これは、被害者救済的な発想ではなく、あくまでも社会の仕組みとして考えたもので・・・事件の当事者を体験された方には、癇に障る意見かもしれませんが・・・あえて、提案させていただくことにしました。

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