2013年3月31日 復活祭礼拝(ヨハネ20:1-18)岡田邦夫
「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」ヨハネ20:18
イースターおめでとうございます。
教会のシンボルとして掲げられているのは飼い葉おけではなく、十字架です。最も重要なのはキリストの死と復活とあわせた福音だと聖書に記されているからです。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…」、「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(1コリント15:3ー4、15:14)。キリスト教の救いはキリストの復活があってこそ、実質のあるものなのです。
◇最初に見聞きしたのは…
十字架にかかり、死んで葬られ、よみがえられたイエス・キリストを最初に見たのは女性でした。週の初めの日=日曜日の早朝、まだ暗いうちに、マグダラ出身のマリヤがイエスの墓を見にきました。すると、横穴式の墓を閉めてあった、その重い石が取りのけてあるのを発見。一大事、走って行って、ペテロとヨハネに伝えます。とてもステキな言い回しの「イエスが愛された、もうひとりの弟子」というのはヨハネに違いありません。墓に駆けつけると、彼女の言ったとおりであり、墓に入ってみるとイエスの遺体をまいていた亜麻布が置かれているだけでした。この弟子たちは戸惑うばかり、帰るしかないので、自分のところに帰って行きました。
この時の心の状況をヨハネはありのまま書いています。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(20:9)。
弟子たちは帰ってしまったが、マリヤのほうはただ呆然(ぼうぜん)と墓のところにたたずんで泣いていました。そして、勇気を出して、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込みました。すると、ふたりの人がイエスの遺体のあった頭のところと足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えました。それは御使いだったと記されています。なぜ、御使いが登場するのでしょう。イエスは完全に死なれたのです。墓に葬られ、生き返ることの出来ない状態になられたのです。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」とあるように、主は父なる神によって「よみがえらされた」のです(使徒2:24)。この創世以来、最も大いなる復活の出来事の中に御使いがおり、石を転がすこともしたのでしょう。御使いが「なぜ泣いているのですか。」と声をかけても、彼女には何が起こったかわかりません。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」とうろたえるばかりです。
そして、彼女がうしろを振り向くと、園の管理人らしき人がいて、また、同じようなやり取りをします。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります」。イエス・キリストの復活の第一発見者なのですが、マグダラのマリヤにはわからないのです。単に蘇生(そせい)したのであれば、目で見て、すぐわかったでしょう。しかし、栄光のからだによみがえられた主イエスを、この肉眼の目で見てわかるものではないのです。
声を聞いて、わかったのです。生前聞いたお声です。「イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った」。イエスはこう言われます。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい」。わたしにすがりついていてはいけませんはある訳は「私を止めるな」。意訳ですが文章が続きます(バルバロ訳)。そして、「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた」のです(20:17-18)。
このように、イエス・キリストの復活の第一発見者であり、その証人は十字架上で苦しまれるイエスのそばにいた婦人だったのです(ヨハネ19:25)。イエスの母マリヤには「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言って、ヨハネに引き取ってもらうよう、気遣いをされました。墓においてはマグダラのマリヤに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と気遣いの言葉をかけられたのです(新共同訳)。主は弱い女性と共におられるのです。主は泣く者と共におられるのです。
◇最初に出会ったのは…
「人生は出会いで決まる」と言ったユダヤ系の宗教哲学者がいます(マルチン・ブーバー)。確かに私たちの人生は出会いによって織り成されています。 産声を上げた時の親との出会い、親族との出会い、友人との出会い、先生との出会い、伴侶との出会い等々…、そういう出会いで人生は決まっていきます。しかし、もっと重要な出会いがあります。神との出会いです。それで永遠が決まるのです。更に言うと、復活の主との出会いで、永遠の救いが決まるのです。
イエスは復活の現象を見せようとしたのではありません。復活のイエスに出会ってほしかったのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか」とお声をかけました。あるキリスト者が「人間は悲しい存在である」と言いました(新渡戸稲造)。私たちはあのこと、このことで泣きたいほど悩んでいます。あの人も死んでいき、自分も死んでいかなければならない悲しい存在。しかし、主イエスは「人よ、なぜ泣いているのか」とお声をかけてくださるのです。マリヤには御使いが声をかけ、イエスも声をかけられました。悲しい問題、悲しい心、悲しい存在を全面的に受けとめてくださるのです。「人よ、なぜ泣いているのか」というお声を今日も聞きましょう。
そして、「マリヤ」と名を呼んでくださるのです。マリヤは「ラボニ」と言って答えます。そのように、呼び合う関係に導かれるのです。そこに人格と人格との出会いがあるのです。そこで悲しみが喜びに変わるのが復活のイエス・キリストとの出会いなのです。嬉しくなってマリヤは「私は主にお目にかかりました」=私は復活の主に出会いましたと弟子たちに告げました。
弟子たちについてこのようなことがこの福音書に挿入されています。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(20:9)。復活がたまたま起こった現象ではなく、預言されていたこと、聖書に約束されていたこと、神の言葉と結びついていることが重要なのです。マリヤだけの個人的な出会いだけではなく、すべて信じる者の共有の出会いでなければならないからです。神の言葉と結びついてこそ、真の理解の出来た出会いになるのです。聖霊によって復活を理解できた弟子たちはこう語りました。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』…それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」(使徒2:24-31、詩篇16篇)。
復活の主との出会いは、イエスに理解されることで始まり、キリストを理解するという、理解しあうものになることであり、その理解のためには言葉が重要なのです。そして、復活のイエス・キリストを信じる者は死んでもよみがえるのです。主と同じように栄光のからだに復活するのです。私たちもこの喜びの出会いを告げましょう。「私は主にお目にかかりました」。
「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」ヨハネ20:18
イースターおめでとうございます。
教会のシンボルとして掲げられているのは飼い葉おけではなく、十字架です。最も重要なのはキリストの死と復活とあわせた福音だと聖書に記されているからです。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…」、「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(1コリント15:3ー4、15:14)。キリスト教の救いはキリストの復活があってこそ、実質のあるものなのです。
◇最初に見聞きしたのは…
十字架にかかり、死んで葬られ、よみがえられたイエス・キリストを最初に見たのは女性でした。週の初めの日=日曜日の早朝、まだ暗いうちに、マグダラ出身のマリヤがイエスの墓を見にきました。すると、横穴式の墓を閉めてあった、その重い石が取りのけてあるのを発見。一大事、走って行って、ペテロとヨハネに伝えます。とてもステキな言い回しの「イエスが愛された、もうひとりの弟子」というのはヨハネに違いありません。墓に駆けつけると、彼女の言ったとおりであり、墓に入ってみるとイエスの遺体をまいていた亜麻布が置かれているだけでした。この弟子たちは戸惑うばかり、帰るしかないので、自分のところに帰って行きました。
この時の心の状況をヨハネはありのまま書いています。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(20:9)。
弟子たちは帰ってしまったが、マリヤのほうはただ呆然(ぼうぜん)と墓のところにたたずんで泣いていました。そして、勇気を出して、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込みました。すると、ふたりの人がイエスの遺体のあった頭のところと足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えました。それは御使いだったと記されています。なぜ、御使いが登場するのでしょう。イエスは完全に死なれたのです。墓に葬られ、生き返ることの出来ない状態になられたのです。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」とあるように、主は父なる神によって「よみがえらされた」のです(使徒2:24)。この創世以来、最も大いなる復活の出来事の中に御使いがおり、石を転がすこともしたのでしょう。御使いが「なぜ泣いているのですか。」と声をかけても、彼女には何が起こったかわかりません。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」とうろたえるばかりです。
そして、彼女がうしろを振り向くと、園の管理人らしき人がいて、また、同じようなやり取りをします。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります」。イエス・キリストの復活の第一発見者なのですが、マグダラのマリヤにはわからないのです。単に蘇生(そせい)したのであれば、目で見て、すぐわかったでしょう。しかし、栄光のからだによみがえられた主イエスを、この肉眼の目で見てわかるものではないのです。
声を聞いて、わかったのです。生前聞いたお声です。「イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った」。イエスはこう言われます。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい」。わたしにすがりついていてはいけませんはある訳は「私を止めるな」。意訳ですが文章が続きます(バルバロ訳)。そして、「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた」のです(20:17-18)。
このように、イエス・キリストの復活の第一発見者であり、その証人は十字架上で苦しまれるイエスのそばにいた婦人だったのです(ヨハネ19:25)。イエスの母マリヤには「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言って、ヨハネに引き取ってもらうよう、気遣いをされました。墓においてはマグダラのマリヤに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と気遣いの言葉をかけられたのです(新共同訳)。主は弱い女性と共におられるのです。主は泣く者と共におられるのです。
◇最初に出会ったのは…
「人生は出会いで決まる」と言ったユダヤ系の宗教哲学者がいます(マルチン・ブーバー)。確かに私たちの人生は出会いによって織り成されています。 産声を上げた時の親との出会い、親族との出会い、友人との出会い、先生との出会い、伴侶との出会い等々…、そういう出会いで人生は決まっていきます。しかし、もっと重要な出会いがあります。神との出会いです。それで永遠が決まるのです。更に言うと、復活の主との出会いで、永遠の救いが決まるのです。
イエスは復活の現象を見せようとしたのではありません。復活のイエスに出会ってほしかったのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか」とお声をかけました。あるキリスト者が「人間は悲しい存在である」と言いました(新渡戸稲造)。私たちはあのこと、このことで泣きたいほど悩んでいます。あの人も死んでいき、自分も死んでいかなければならない悲しい存在。しかし、主イエスは「人よ、なぜ泣いているのか」とお声をかけてくださるのです。マリヤには御使いが声をかけ、イエスも声をかけられました。悲しい問題、悲しい心、悲しい存在を全面的に受けとめてくださるのです。「人よ、なぜ泣いているのか」というお声を今日も聞きましょう。
そして、「マリヤ」と名を呼んでくださるのです。マリヤは「ラボニ」と言って答えます。そのように、呼び合う関係に導かれるのです。そこに人格と人格との出会いがあるのです。そこで悲しみが喜びに変わるのが復活のイエス・キリストとの出会いなのです。嬉しくなってマリヤは「私は主にお目にかかりました」=私は復活の主に出会いましたと弟子たちに告げました。
弟子たちについてこのようなことがこの福音書に挿入されています。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」(20:9)。復活がたまたま起こった現象ではなく、預言されていたこと、聖書に約束されていたこと、神の言葉と結びついていることが重要なのです。マリヤだけの個人的な出会いだけではなく、すべて信じる者の共有の出会いでなければならないからです。神の言葉と結びついてこそ、真の理解の出来た出会いになるのです。聖霊によって復活を理解できた弟子たちはこう語りました。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』…それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」(使徒2:24-31、詩篇16篇)。
復活の主との出会いは、イエスに理解されることで始まり、キリストを理解するという、理解しあうものになることであり、その理解のためには言葉が重要なのです。そして、復活のイエス・キリストを信じる者は死んでもよみがえるのです。主と同じように栄光のからだに復活するのです。私たちもこの喜びの出会いを告げましょう。「私は主にお目にかかりました」。