オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

永遠の命に至る道

2013-03-10 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月10日 主日礼拝(1テモテ6:3-16)岡田邦夫


 「神の人よ、…信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」。(1テモテ6:12)

 家内が私にこう聞いてきました。私って、「愛の人」になれるかしら?なれないとはっきり答えたいところだが、少し間をおいて答えました。「西相野」の人にはなれるんじゃない!そうね、西相野の老人会のお菓子を作ったりしているものね…。愛の人と呼ばれたいと求めるのは違っているでしょうが、愛の人になりたいと求めるのはキリスト者として大切なことです。

◇利得の道
 パウロが長年の伝道牧会の経験から、若いテモテに手紙を書きました。偽教師が現れて、違った教えを説いているという問題に対処する手紙なのですが、牧会の指南書のようなものになっています。その中で、キリスト者が何を求めていったらよいかを教えているのがこの箇所です。以前いました教会で、キリスト者のご主人が天に召されて、その後から、彼の奧さんが教会の礼拝に来るようになりました。「教会は得にはならないけど、ためになる。」と的をいたことを言われ、続けて来られ、受洗しました。
 ところが、「大きな利益(利得)を受ける道」があるとパウロが言うのです。まず、敬虔(信心)を利得の手段と考えている人たち、金ほしさに信心について教えている偽りの教師を非難します。どういう結果になるかと言いますと。「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じまた、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです」。そして、その根っこにあるものを指摘します。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」。

◇美徳の道
 そこで、金銭を愛するのではなく、真理を愛する道を示します。「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔(信心)にかなう教えとに同意」することです(6:3)。金銭は数量で表し、他と比較できる相対的なものです。しかし、ほんとうの利得というものは数量ではかるれない、他と比較できない、ある意味で絶対的なものです。見えないものです。富で欲は満たされても、魂は満たされません。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです」。その方が魂は自由なのです。金銭は必要です。しかし、金銭を愛すると金銭の奴隷になってしまいます。「金の人」になってしまいます。しかし、キリスト者は「神の人」のはずです。
 ですから、手の指の間から、抜けていってしまわないものを求むべきです。「神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」。あなたの魂の預金通帳に正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和という霊的財産を貯めていくのです。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。その財産を霊的な有効活用をするのです。これこそが、キリスト教の美徳の道であり、キリスト教的シンプル・ライフなのです。

◇獲得の道
 先週の日課、使徒の働きの中で、美しの門で生まれつき足のなえた男がいて、通りかかったペテロとヨハネに施しを求めてきた話がありました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」とペテロが言うと、男は歩き出し、神を賛美して、神殿にいっしょに入っていきました。それに驚いた人たちにペテロが復活の福音を回廊(かいろう)で語ります。神殿当局がそんなことをされては困ると、二人を捕らえ、尋問すると、また福音を語り、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言い切ります。当局は「ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった」のです(使徒の働き4:13ー14)。
 使徒たちは普通の人だったという評価です。普通の人なのにその言動が普通でなかったのです。使徒の場合は復活の主に出会い、聖霊の注ぎを受け、それに伴うしるしを行い、福音を証詞していくという特別な任務はありましたが、それでも、普通の人でした。キリスト者というのはそれを受け継ぎ、使徒信条を告白する者たちです。私たちは普通の人ですけど、普通の人ではないのです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」と告白し、証詞する者です。テモテも普通の人、しかし、信仰の告白は立派でした。「あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました」。違った教えが横行しています。信仰を惑わすものはあとを絶ちません。生存競争のただ中におかれていて、私たちは惑わされやすいのですが、やはり信仰の戦いをしていかなければなりません。金に仕えるか、神に仕えるか、欲におぼれるか、良心に従うか、世俗にまみれて心が虚しくなるか、御国の恵みに浴して心が満たされるか、信仰の戦いは続きます。聖書は明確に命じます。
 「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」(6:12)。永遠の命は限りない命以上のもので、神の命に与ることであり、キリストを信じる者はすでに獲得しているものです。しかし、また、永遠の命はキリストを知ることであり、キリストを内にお宿しすることですから、たえず、求めていくものであり、獲得し続けるものです。(ヨハネ3:16、10:10、17:3、ピリピ3:10-12)。前述しました、キリスト者がシンプル・ライフをおくるのは、このエターナル・ライフ(永遠の命)を得るためなのです。
 私たちは世間の目を気にして、生活の戦いをしています。しかし、キリスト者は静まって、御前にあることを意識しましょう。「すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前」にあるという意識です。「私たちの主イエス・キリストの現れの時」(神はご自分の良しとする時)という再臨の時の意識です。アーメンと呼べるお方を意識するのです。「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン」。
 そのような方だからこそ、永遠の命を獲得させてくださるのです。私たちはイエス・キリストの福音によって、聖霊の励ましのよって、信仰の戦いを戦う勇敢な人になれるのです。信仰の告白をし、立派な人になれるのです。私たちは、御前で働くサラリーマン、信仰の商戦を戦い、良きサービス(奉仕、礼拝)を行い、永遠の命のサラリーをいただくのです。私たちは、御前で戦うアスリート、信仰の競技を戦い、いばらの冠にかえて、永遠の命の月桂冠を、金メダルをいただくのです。私たちは普通の人ですが、召されて神の人なのです。