2013年3月3日 主日礼拝(ヨハネ12:20-26)岡田邦夫
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24
テレビなどの宣伝で、私がドキッとするものがあります。保険のCMで「死亡保障」。これ以上ないというほど単純明瞭で、効果のあるCMには違いないのですが、言葉だけ聞くと、身の震え上がるような響きとなって伝わってきます。人は確かに誰でも必ず死にます。死なない人はいません。死亡は保障されています。私には現代版「メメント・モリ」に聞こえてきます。この言葉はラテン語で「汝の死を憶えよ」「死を忘れるな」という意味。コレラやペストが大流行した中世ヨーロッパで流行となった言葉だと聞いています。フランスの修道院では、このメメント・モリが挨拶の言葉として交わされたと言います。イエス・キリストが重要なことを言うとき、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言います。何が重要なのかというと、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」という死の問題です。
◇小さな死と小さな再生
「別れは小さな死」というフランスのことわざがあります。私たちの人生には色々な人とに出会い、また別れがあります。出会いを通して、その大切な人が心の一部にさえなっていきます。そして、愛する者との別れはその心の一部が死ぬような、小さな死の経験となるのです。ドイツでは「別れる」は「別れを受け取る」という言い回しで表現します。別れは受け取るものであり、失うだけのものではないという意味がこめられているのですと、アルフォンス・デーケン先生が言っておられます(「死生学」を教える上智大名誉教授)。小さな死を通して、別れた存在がいかに大切な存在であったか知らされ、相手の人間性を新たなる深い次元で見つめ、新たな自己を誕生させる「小さな再生」も可能なのです。その意味で「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」を座右の銘にしている人がいます(キリスト者でない人もです)。
◇キリストの死と復活・一粒の麦
この言葉はイエス・キリストご自身のことです。イエスは過ぎ越の祭りにエルサレムに入場して、最後の一週間が始まりました。それは死に行く行程なのです。ユダヤ人以外のギリシャ人(異邦人)がイエスに会いたいとピリポを介して訪ねてきました。世界宣教の始まりが見えてきた、このことが契機となり、いよいよ死に向かうという自覚をされたのでしょう。すると、イエスは彼らにこう言われたのです。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(12:23)。
一方では人となられた方として、私たちと同じように、死に行くプロセスをたどろうとされたのです。そして、もう一方では贖い主として十字架の苦難を受けるという、特別なプロセスをたどる決意をされたのでしょう。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」(12:27)。主が心騒ぐと言われたのですから、どれほど騒いだことのでしょうか。修行をつんだ修行者であれば、少しも動揺したそぶりも見せず、大往生していくのかも知れません。そして、このようになれと弟子たちに範を残すのかも知れません。しかし、イエス・キリストは死を克服するのではなく、人間の死をそのまま受けとめ、まことに死んでゆかれたのです。また、いけにえの羊として、底知れない死の苦しみの杯を最後の一滴まで飲みほされていくプロセスを選ばれたのだと思います。だれひとりマネの出来ない愛における犠牲の死でした。だから、栄光を受けるのだと言われたのです。「父よ。御名の栄光を現わしてください。」と祈られますと、天から声が聞こえました。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」(12:28)。
祭司長等のユダヤ人に連帯して、罪深い私たちは御子イエスをゴルゴダの地に投げ落とし、ののしりながら罪のどろ足で、ギュウギュウと踏みつけて、一粒の麦として葬ってしまったのです。しかし、御子はそんな私たちの罪を引き受けて、その罪と共に完全に葬られたのです。そのところから、聖霊によってよみがえらされ、御子を見捨て、踏みにじり、押しつぶした私たちの罪を赦し、私たちを見捨てず、踏みにじらず、押しつぶすことをされないという福音の実が豊かに結ばれたのです。
◇従う者の献身と永遠の命・一粒の麦
12章24節~26節を弟子のあり方として見てみましょう。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」。
イエスは弟子たちに理想像を提示して、このようになれとは言いませんでした。ただ、わたしに従って来なさいと言われるのです。イエスのみ顔を仰ぎ、救われた者はイエスの「背中」を見ながらついていくのです。ペテロはペテロ、ヨハネはヨハネらしく、あなたはあなたらしくついていくのです(21:22)。
田辺元という哲学者が「メメント モリ」という短い書を表しました(死を忘れるな)。死の哲学です。それは妻‘ちよ’の死(1951)が契機で、後に「わがために命ささげて死に行ける妻はよみがへりわが内に生く」と歌っています※。かたい哲学はおいといて、二人称で呼ぶ人の死はその歌のような現象をもたらします。それが二人称で呼べる愛するイエス・キリストが一粒の麦となって死んでゆかれたのなら、そのお方は「よみがへりわが内に生く」るのです。一粒の麦となって地に落ちて死んでゆかれたイエス・キリストの背中をじっと見つめ、ついていくと、その方が内に生き、その方が生きたように、しらずに一粒の麦となって生きていくのです。一粒の麦となっていくなら、父なる神がその人に報いてくださり、豊かな実、永遠の命を結ばせてくださるのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24
テレビなどの宣伝で、私がドキッとするものがあります。保険のCMで「死亡保障」。これ以上ないというほど単純明瞭で、効果のあるCMには違いないのですが、言葉だけ聞くと、身の震え上がるような響きとなって伝わってきます。人は確かに誰でも必ず死にます。死なない人はいません。死亡は保障されています。私には現代版「メメント・モリ」に聞こえてきます。この言葉はラテン語で「汝の死を憶えよ」「死を忘れるな」という意味。コレラやペストが大流行した中世ヨーロッパで流行となった言葉だと聞いています。フランスの修道院では、このメメント・モリが挨拶の言葉として交わされたと言います。イエス・キリストが重要なことを言うとき、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言います。何が重要なのかというと、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」という死の問題です。
◇小さな死と小さな再生
「別れは小さな死」というフランスのことわざがあります。私たちの人生には色々な人とに出会い、また別れがあります。出会いを通して、その大切な人が心の一部にさえなっていきます。そして、愛する者との別れはその心の一部が死ぬような、小さな死の経験となるのです。ドイツでは「別れる」は「別れを受け取る」という言い回しで表現します。別れは受け取るものであり、失うだけのものではないという意味がこめられているのですと、アルフォンス・デーケン先生が言っておられます(「死生学」を教える上智大名誉教授)。小さな死を通して、別れた存在がいかに大切な存在であったか知らされ、相手の人間性を新たなる深い次元で見つめ、新たな自己を誕生させる「小さな再生」も可能なのです。その意味で「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」を座右の銘にしている人がいます(キリスト者でない人もです)。
◇キリストの死と復活・一粒の麦
この言葉はイエス・キリストご自身のことです。イエスは過ぎ越の祭りにエルサレムに入場して、最後の一週間が始まりました。それは死に行く行程なのです。ユダヤ人以外のギリシャ人(異邦人)がイエスに会いたいとピリポを介して訪ねてきました。世界宣教の始まりが見えてきた、このことが契機となり、いよいよ死に向かうという自覚をされたのでしょう。すると、イエスは彼らにこう言われたのです。「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(12:23)。
一方では人となられた方として、私たちと同じように、死に行くプロセスをたどろうとされたのです。そして、もう一方では贖い主として十字架の苦難を受けるという、特別なプロセスをたどる決意をされたのでしょう。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」(12:27)。主が心騒ぐと言われたのですから、どれほど騒いだことのでしょうか。修行をつんだ修行者であれば、少しも動揺したそぶりも見せず、大往生していくのかも知れません。そして、このようになれと弟子たちに範を残すのかも知れません。しかし、イエス・キリストは死を克服するのではなく、人間の死をそのまま受けとめ、まことに死んでゆかれたのです。また、いけにえの羊として、底知れない死の苦しみの杯を最後の一滴まで飲みほされていくプロセスを選ばれたのだと思います。だれひとりマネの出来ない愛における犠牲の死でした。だから、栄光を受けるのだと言われたのです。「父よ。御名の栄光を現わしてください。」と祈られますと、天から声が聞こえました。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」(12:28)。
祭司長等のユダヤ人に連帯して、罪深い私たちは御子イエスをゴルゴダの地に投げ落とし、ののしりながら罪のどろ足で、ギュウギュウと踏みつけて、一粒の麦として葬ってしまったのです。しかし、御子はそんな私たちの罪を引き受けて、その罪と共に完全に葬られたのです。そのところから、聖霊によってよみがえらされ、御子を見捨て、踏みにじり、押しつぶした私たちの罪を赦し、私たちを見捨てず、踏みにじらず、押しつぶすことをされないという福音の実が豊かに結ばれたのです。
◇従う者の献身と永遠の命・一粒の麦
12章24節~26節を弟子のあり方として見てみましょう。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」。
イエスは弟子たちに理想像を提示して、このようになれとは言いませんでした。ただ、わたしに従って来なさいと言われるのです。イエスのみ顔を仰ぎ、救われた者はイエスの「背中」を見ながらついていくのです。ペテロはペテロ、ヨハネはヨハネらしく、あなたはあなたらしくついていくのです(21:22)。
田辺元という哲学者が「メメント モリ」という短い書を表しました(死を忘れるな)。死の哲学です。それは妻‘ちよ’の死(1951)が契機で、後に「わがために命ささげて死に行ける妻はよみがへりわが内に生く」と歌っています※。かたい哲学はおいといて、二人称で呼ぶ人の死はその歌のような現象をもたらします。それが二人称で呼べる愛するイエス・キリストが一粒の麦となって死んでゆかれたのなら、そのお方は「よみがへりわが内に生く」るのです。一粒の麦となって地に落ちて死んでゆかれたイエス・キリストの背中をじっと見つめ、ついていくと、その方が内に生き、その方が生きたように、しらずに一粒の麦となって生きていくのです。一粒の麦となっていくなら、父なる神がその人に報いてくださり、豊かな実、永遠の命を結ばせてくださるのです。