オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神のことばを語り出す

2013-03-17 00:00:00 | 礼拝説教
2013年3月17日 主日礼拝(2テモテ4:1-8)岡田邦夫


 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」
2テモテ4:2

 楽譜というのは便利なものです。それがあれば、世界の誰もが演奏したり、歌ったりできます。楽譜は古代からあったようですが、教会ではグレゴリオ聖歌を歌うのに、記号を使っての色々な工夫をしてネウマ譜というのを作りました。11 世紀にはダレッツオという人が四線譜とドレミの音階を考案し、それがやがて、17世紀には五線譜になって、今日に至っています。これは教会が賛美するために生まれたものだといってよいでしょう。クリスマスで歌われる独特のメロディの「久しく待ちにし」は、曲が15世紀、歌詞が9世紀のものですが、21世紀の今も、この日本においても生きいきと歌われているのですから、不思議です(新聖歌68)。

◇聖書が神のことばを語り出す
 聖書というのもまた、不思議な書です。美術品ですと、その作品のある場所に行かなければなりませんが、音楽の場合は楽譜があれば、いつでもどこでも誰もが演奏したり、歌ったり出来ます。聖書も過去の遺物でも、単なる古典でもなく、今、手にある聖書という言葉を読む時に、生きた言葉となってよみがえり、魂に響いてきます。
 それは聖書が霊感を受けて書かれたからです。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(3:15-17)。ひと言で言うと霊感を受けて書かれた正典であるということです。ここでいう聖書は旧約聖書のことです。ここで聖書とは何かと述べたこのパウロの手紙がただの手紙で終わらず、新約聖書の一書に入れられ、正典となったのです。面白い話です。この手紙は個人的色彩が濃く、こんなことが書いてあります。迫害されて獄中におりますパウロは年老いていて、近づいてくる冬というのは体にこたえます。そこで、トロアスのカルポのところにおいてきた上着を持ってきてほしいと頼んでいます。また、その時には書物を、特に羊皮紙のもの、それは個人用の聖書でしょうか、それ持ってきてほしいと書いています。獄中では彼の元にはルカしかおらず、孤独だったので、何としてでもテモテに会いたいとも記しています。そして、伝道者テモテへの励ましも、個人的な色彩が濃いです。…1テモテ1:4、15、4:9ー11、13…。
 このように寒いとか、寂しいとか、会いたいとか、そういう生身の人間のままで、必要な使信を書いたものなのですが、そこに聖霊が働いていたのです。決して、霊が乗り移って、筆先を動かして書かされたと言うのではなく、知性と感情と意志をもって、現実に即しながら、神のみこころを書き記したのです。そこに霊感、インスピレーションが与えられていたのです。ですから、読者も色々な問題をかかえた生身の人間、寒いとか、寂しいとか、会いたいとか、そう言って生活している、そのただで聖書を読む時に、生きた言葉、人を生かす言葉となって、魂に響いてくるのです。心を震わすのです。

◇聖徒が神のことばを語り出す
 ローマ帝国の迫害の元で投獄されたパウロが殉教していくのを予期します。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました」(4:6)。この手紙はパウロの最後のもの、遺言のようなものです。最も言い残したいことを述べます。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(4:2)。実に厳粛であり、一点に集中しています。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」。
 みことばというのは健全な教えであり、真理のことばです。しかし、人は違った教えでも、気ままな願いをもって、都合のいい話を好みます。それは真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くのです。ですから、私たち、キリスト者の使命は時が良くても悪くても、しっかりとみことばを宣べ伝えることです。東京聖書学院で学んでいた時の修養生のモットーはこれでした。「 「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(2:5)。また、教授の一人で、私が入学したときには天に召されていたのですが、野辺地天馬という先生がおられました。先生が常々言っておられたのは、「雲の上は常に晴天なり」と「すべからく田舎伝道者たれ」でした。伝道者だけでなく、すべてのキリスト者にもそういう使命があると思います。時が良くても悪くても、場所が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい。都合のよい話をして、間違った方に導こうとしている人たちがいる中に、健全な教え、真理のことば、聖書のみことばをまっすぐに説き明かしなさい。主イエス・キリストはそう言っておられるのではないでしょうか。
 使徒の働きを見ますと、時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えたことがたくさん記録されています。多くの人が真理に立ち帰り、救われたことも証詞されています。今日の私たちも使徒の働きの続きを書いていきたいものです。パウロは私たちがイメージするような「聖人」ではないようです。テモテへの手紙には、寒いとか、寂しいとか、会いたいとか言っている人であり、罪人のかしらだとさえ言っている人です。しかし、模範者というのです。こういうことです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」(1テモテ1:15-16 )。
 最後に、輝かしい希望のことばを残します。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」(4:5ー8)。
 キリスト者はパウロと共にみことばを世界中に宣べ伝える使命をもつ同志であり、信仰の戦いの戦友なのです。競技で言えば、団体競技、いっしょに天国で義の栄冠をいただくのです。
 何がそうさせるのかというと、神のことばがそうさせるのです。「神のことばは、つながれてはい」ないからです。天地は滅びても神のことばは滅びないからです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものだかです。聖霊の霊感、感動を受けて書かれた聖書が行ける神の言葉となって、あなたの内によみがえるからです。…マタイ24:352、テモテ2:9、1テモテ1:15、2テモテ3:16。
 私たちは生活の拠点である家庭から、礼拝の使命を果たすべく教会に「行ってきます」と言って、出ていきます。また、私たちは信仰の拠点である教会から、伝道の使命を果たすべく家庭に「行ってきます」と言って、出ていきます。この使命に生きる私たちは幸いです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」。