オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

み名があがめられますように

2014-02-02 00:00:00 | 礼拝説教
2014年2月2日 主日礼拝(マタイ福音書6:9-13)岡田邦夫


 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」マタイ福音書6:10

 先週の木曜日、新聞の一面に「新型万能細胞を開発」神戸の理研、マウスで成功という大ニュースが報じられました。その「STAP細胞」を発見したのはリーダーの小保方晴子博士。若い女性なので、かっぽう着の「リケジョ」快挙などとゴシップ的な報道もありました。博士はインタビューでまだ始まったばかり、 数十年後とか百年後の人類社会の貢献を意識して研究を進めたいと展望を述べていました。「科学」の世界の大発見です。
 一方、テレビなどで、きょうの運勢という星座占いが報じられたり、多くのカレンダーに六曜の占いが印刷されていたり、何のためらいもなくなされています。占ってはいないけれど、曜日は星の名です。人は星の運行や見えない運命とか不思議な存在とかをその生き方と結びつけようと古代からしてきたし、今日もなされています。
 ギリシャ人が考えました。すべては原子でできているのではないかと。それは科学という分野で発達しました。私という人間も宇宙の星々も原子、素粒子でできているというつながりです。また、重力とか磁力とかいう四つの力によるつながりです。科学的な説明で頭が納得するとしても、無味乾燥に思えてしまいます。自分は何のために生まれてきたのだろうか、どんな星の下に生まれたのだろうかと心は思うのであります。

◇過去と今
 神は非常に良かったといえるようなみこころ=意志をもって、天と地を創造されました。人は神のかたちに造られました。神学者はかたちは自由意志だと言います。それは心だと言っても良いと私は思います。しかしその意志を乱用し、心が神から離れ、罪を犯してしまいました。そうして、人類の歴史が始まったので、人は神のみこころが判らなくなってしまいました。そこで、創造の時のみこころ、すなわち、ことばが肉体をとり、人となられました。それがイエス・キリストです。まったく、みこころから外れてしまって、罪と死と滅びの中にある私たちを救い、みこころにかなう者になるようにと、十字架におかかりになり、犠牲になられました。十字架の苦しみというのは人類が誰も経験したことない苦痛でした。イエスはその受難の前に祈りました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42 )。人を救うことが神のみこころ、あなたが救われることが神のみこころです。ですから、救われた者は神のみこころにそって生きることが最も重要です。こう祈るのです。
 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」

◇永遠と今
 神のみこころの私たちに示された全体は創世記から黙示録に至るまで記されています。その中身は天地創造の初めがあり、イエス・キリストの生涯という中心を経て、やがて、旧天地が崩される終わりが来て、新天地が現れるという神のみこころです。人類救済のみこころです。
 私たち、御子を信じる者は天地創造の前から選ばれていたのであり、イエス・キリストによる救いのゆえに新天地に入ることが約束されています。これが私たちへの、私へのみこころです。そのようにみこころ全体を意識していのるのです。
 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
 そして、今、ここで、生きている私、その私に、神のみこころがあるのです。見えない天と今ここにいる、悩んだり苦しんだりしている私とつながっているのです。その地にみこころが行われますようにと祈るのです。祈れるのです。終わりの日に行われることが今ここに、先取りとして行われますようにと祈るのです。祈れるのです。
 そのように意識して生きるようにと、ヨハネ黙示録21:6から説教した人がいます。説教題を「永遠の今」としました(ティリッヒ)。この言葉をしきりに言っていた総理大臣がいました(第68・69代)。キリスト者であった大平正芳(まさよし)氏です(1980年召天)。私も気に入った言葉です。キリスト者は「永遠の今」に集中して生きるのです。過去の悔やみを感謝に変え、未来の不安を希望に変え、今が一番と生きるのです。そのために、祈るのです。
 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
重い皮膚病の人「みこころでしたらきよめていただけるのですが」と祈ると「そうしてあげよう」と答えられることがあります(マルコ1:40ー44口語訳)。また、このとげを取って下さいとパウロが祈りましたが「わたしの恵みは、あなたに十分である」という答えしか返ってきませんでした(2コリント)。しかし、それは第三の天にのぼる神秘体験に勝る祈りの答え、恵みの答えでした。祈りが聞かれなかったようで、最高の答えをいただくことがあります。イエスがゲッセマネで「この杯を取りのけて下さい。しかし、みこころのままに」と祈った祈り、苦い杯は取ってもらえなかったのですが、最高の結果になりました。主は復活され、神の右に上げられ、人類救済の道が一気に開かれたのですから。こうして、永遠の今を祈りにおいて生きるのです。
 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」

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