オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

立って、出てきなさい

2010-07-25 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月25日 伝道礼拝(雅歌2:10) 岡田邦夫


 「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」雅歌2:10


 私たちは何かに縛られて生きています。因習に縛られているとか、世間というものに縛られているとか…ですから、そういうしがらみから、自由になって生きたいと思うかもしれません。しかし、本当に自由になれるのでしょうか。このように例えることがあります。たこの糸が切れてしまうとたこは風に流されていきますが、すぐに落ちてしまいます。しかし、糸でつながっていれば、人に操られながら、大空を自由に飛び交えるというものです。また、魚が自由になりたいと丘に上がっても、ばたばたしても、たいして移動は出来ないし、また、生きてはいけません。魚は水の中にあってこそ、自由に泳ぎ回れるのです。人は本来あるべきものにつながっていれば、自由なのです。また、人は本来あるべきところにいる時、自由なのです。
 本来あるべきものとは私たちを造られた神です。創造者である神につながっている時に、また、神のふところに帰る時にこそ自由に生きられるのです。ところが、アダム以来、神に背を向け、神を信じない罪をおかし、糸の切れたたこのようになってしまいました。また、丘に上がった魚のようになってしまい、滅びをまつ身となってしまいました。私は宗教からも自由に生きていると言いましても、お金という神、偶像に縛られているかも知れません。 イエス・キリストは私たちに自由を得させるために地上に来てくださいました。人をほんとうに不自由にしている罪と死から解放するために、十字架にかかり、私たちの身代わりとなって死んでくださいました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と主は招いておられます(マタイ福音書11:28)。罪に縛られ、疲れた人、それに負けまいとする律法主義の重荷を負っている人はイエス・キリストのもとに来なさいと言っています。それらから、十字架において解放し、休ませてあげますと約束しています。
 重い病気で死に、墓におさめられたラザロにイエス・キリストは「大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』」(ヨハネ福音書11:43)。すると、ラザロは生き返りました。私たちに向かって、縛られている罪と死の中から出てきなさいと呼んでいるのです。永遠の命に生き返るのです。神のふところに立ち返るのです。愛に死んでいたのが、神の愛に帰るのです。あなたが神を信じるのです。
 旧約聖書に雅歌という愛の歌があります。そのまま読めば恋愛歌なのですが、神と私たちの関係で見ていくなら素晴らしい宗教歌なのです。娘と羊飼いはイスラエルと神、ソロモンは偶像という解釈し、「シュラムの娘は、ソロモン王の強引な誘惑にもかかわらず、自分の恋人、羊飼いの若者への愛を貫き通すという」劇詩(チェーン・バイブル)と見ることが出来ます。このような、愛する者を呼ぶ呼びかけの言葉があります。それはイエス・キリストの神が私たちを呼ぶ呼びかけです(口語訳)。
 「わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」(雅歌2:10ー13)。

 以前おりました教会に、大学生の時に交通事故にあい、脊髄(せきずい)を損傷し、おへそから下がまったく動かなくなった一人の青年にお会いしました。家を訪ねていくと、二階でベッドの生活をしていました。教会に来るのは難しい状況なので、牧師が毎週、訪問して、聖書の学びをするこうとになりました。教会員に看護師がおられたので、脊髄損傷というのは治るのか、聞いてみますと、現在の医学では直せないが、そのような方で実際、充分に生活されている方がいるので、紹介してくれるということになりました。その方が彼の家まで、手だけで運転できる車を自分で運転し、会いに来てくださり、車椅子を自分でおろし、自分で車椅子に乗り移りました。車椅子を乗りこなし、仕事もし、結婚もし、バスケットまでもしているとのことでした。それで、彼に希望が与えられたのですが、今の生活とはかなり、ギャップがありました。しかし、一歩ずつ進んで行くしかありません。
 まず、目標をもつこと、自分がしたいこと、できそうなことは何か…英検1級を取って、英語を教える人になること。そして、生きていく力は何か…聖書のみ言葉で、「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」(イザヤ書32:15)。
 ベッドの生活から、車椅子を乗りこなす生活に変えていく自己訓練が始まりました。床ずれ(じょくそう)に気をつけて座り、勉強すること(車椅子用の机は牧師が作成)、10センチの段差を越える練習すること(倒れることもあるのでふとんを用意)などです。一人でガンバって、英検2級まで合格しました。
 次は車を乗りこなすことです。彼は一大決心をして、家の近くの教習所に、一人、車椅子で、恥ずかしさのあまり、顔を上げられずに、それでも行ったのです。その道のりは果てしなく長かく感じたとのことです。教習所には家族が用意してくれた手だけで運転できる自家用車がありました。毎日、かよい、卒業試験も無事、合格しました。問題は運転免許の試験会場、当時のこと、エレベーターもスロープもなく、階段なのです。牧師が一緒に行くことになり、背負って上がり、車椅子は人にもってもらうという具合でしたが、その日に合格、共に喜んで帰りました。
 こうして、外に押し出て行く力となったのが、主イエス・キリストが語りかける言葉「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」でした(雅歌2:10)。彼は閉ざされた生活から、閉じていた心の状況から、立って、出てきたのです。免許をとっての初乗り、練習は牧師が同乗しました。緊張はするものの嬉しいものでした。車に乗れば、どこにでも行ける、世界観が変わったような思いでした。
 最初の外出先は教会としました。ところが、あいにく雪が降り始めたのです。礼拝が始まっても、説教が始まっても、来られないのです。牧師夫人は寒くても、祈って、外で待っていましたが、彼の姿は現れません。礼拝最後の祝祷の時に、車椅子を操って、彼が礼拝堂に入って来たのです。祈っていた教会員の皆さん、「よう来た!」と大喜び、彼は大いにテレながらも、一緒に喜び合いました。家を出ようとしたら、他の車が前にあって、出にくく、あきらめず、何度も、切り返して、出てこられたのですが、遅くなったとのことでした。車から車椅子を降ろすことも、自分がそれに乗り移ることも、少し長い教会への通路を通って、教会に入っていくことも、いっさい牧師夫人は手出しせず、一人でされるのを見守っているだけでした。その日の午後から、大雪となったのです。彼はその後、塾で英語を教えるようになり、やがて、結婚もされました。
 十字架にかかり、命を捨てるほどあなたを愛しておられるイエス・キリストはあなたを招いています。いつまで悩みのるつぼにいるのですか、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」。罪と死に縛られて滅んでいくのはかわいそう、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい」。私は復活したではありませんか、復活の平安の中に、復活の命の中に、無限の神の愛の中に、おいでなさい。そう招いているのです。

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