オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

お赦しください

2014-02-16 00:00:00 | 礼拝説教
2014年2月16日 主日礼拝(マタイ福音書6:9-13)岡田邦夫


「わたしたちに罪を犯した者を ゆるしましたから、
           わたしたちの犯した罪を おゆるし下さい。」

 漫才で、コンビの一方が相方の悪口を言うとその相方が返してくる言葉があります。「あんたに言われとうないわい」。人に悪くは言われたくないもの、まして、相手も同じようだったり、自分よりひどかったら、そう言い返したいものです。しかし、主イエスは山の上で教えられました。「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:4-5)。人をさばくな、自分がさばかれないためということです。私、10代の終わり、青春を楽しむ反面、いい知れない虚しさにおそわれていた時に、聖書と出会い、求めていました。そのような時に上記の教えを読みました。衝撃でした。思うようにいかないと、社会が悪い、親が悪い、何々が悪いと人を裁いている、自分の目には大きな梁があるのに何を言うのか。自分が罪深い者であることを知らされ、一度行ったことのある教会に再び行き、悔い改めて、イエス・キリストの赦しをいただき、救われました。よく言われます。人は二つの物差しを持っている。人の罪をはかる物差しは大きく、自分をはかる物差しは短いと。

◇私の中の赦しのストーリー
 「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるし下さい。」(当教会で使用している)と祈りなさいと主イエスは教えられました。自分の罪が赦されるのと他者の罪を赦すのと切り離せないことを言っています。わたしたちに罪を犯した者を赦しましたから、と祈る時に、気づきます。人を赦しているだろうか、赦そうとしても赦せない、そういう自分があることを。御前にあると、自分の目に梁があることを知らされます。あるいは、自分に死が近いとか、世の終わり=キリストの再臨が近いというような、終末を意識した時、人間として、根本的な問題を処理したいと願うものであります。それも他者の罪を赦すことと自分の罪が赦されることです。それができると、魂に平安を得ます。
 主イエスはこうたとえられました。1万タラントという莫大な借金があったしもべを、主人はかわいそうに思い、赦して借金を免除します。ところがそのしもべ、わずかな100デナリ貸しのある仲間に出会うと、首を絞めて返せと迫る。返せないので牢に入れてしまう。それを知った主人はお前が頼んだから莫大な借金を赦してやった。そのようにお前も仲間を憐れむべきだったと言って、しもべを獄吏に引き渡してしまいます。そして、主は言われました。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」(マタイ18:35)。私たちは自分の罪の1万タラントを主イエスの十字架の贖いで免除されたという秤で、他者の罪を量るなら、100デナリというわずかなものに見えてくるのです。パウロが言うように自分は「罪人のかしら」だと思えたら、何でも赦せてしまうのではないでしょうか。
 人間の最も美しい姿は悔い改めている時だと言われます。神に赦されて、人を赦している姿はなお美しいのです。
 このように、この祈りを通して、人を赦せない自分、目の中の梁に気づき、主イエスの十字架の前に行き、その大きな罪を主イエスの贖いにより赦していただいたことを確認します。そして、それだから、人を赦す思いになっていくという順序をたどります。そして、祈ります。「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるし下さい」。

◇神の中の赦しのストーリー
 さらに、またまた、「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから」が重い言葉になってきます。赦せないものを赦すということがどんなにか大変な事であるかということを思い知らされるのです。よく言います。まじめな人ほど、自分がまじめだから、人の過ちを赦せないと。神は義なる方です。全く義なる方です。人間が少しでも高慢なら赦せません。一つの軽いうそでも怒り心頭です。それを必ず裁く方です。旧約聖書の神の民・イスラエルがエジプトの奴隷から救われたにもかかわらず、偶像に走り、罪悪におぼれます。それでも、必要な裁きは下しますが、このうなじのこわい民を赦し、神の民として、残します。預言者イザヤによれば、それは永遠の愛をもってしているからだと告げます。
 最高の愛は赦せない者を赦す愛です。十字架で御子の命を犠牲にしてまで、私たちのような、とても赦せるようなものではないのに、赦してくださったのです。赦せないという怒りを私たちにではなく、御子にぶつけたのです。自分で自分を打ったのです。義という物差しではかったら、おかしな事です。しかし、神は愛という物差しではかられたのです。この祈りを祈る時に、赦せないものを赦すという、その神の痛みが感じられませんか。この祈りを祈る時に、私の罪を赦すために御子を犠牲にされた神の断腸の痛みを感じませんか。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。