オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

キリストの復活の事実

2014-09-07 00:00:00 | 礼拝説教
2014年9月14日 主日礼拝(マルコ福音書16:9-16)岡田邦夫



 オレンジとと黒の模様のオオカバマダラという渡り鳥のよう不思議なチョウがいます。その何百万というチョウはカナダ南部辺りに北米に生息し、冬になる前に4000キロも離れたメキシコに向かって飛んでいきます。毎年、同じメキシコの森に着くと成虫のまま集団で木に止まって冬を越します。春になると暖かいアメリカに向かっていっせいに飛び立ち、何世代かに生まれ変わり、カナダの方に向かっていきます。6月にはカナダ辺りに着き、そこで何世代かにわたり生活し、また、冬になる前に長旅に出ます。0.5グラムの紙切れのようなチョウの飛行技術、気候判断、方向認識(コンパス)は実に優れていて、神秘とも言うべきものです。
 生命への畏敬ということを言ったのがシュヴァイツァー。彼は優れた神学者、オルガン奏者でしたが、赤道下のアフリカで医療活動に身を献げた人です。しかし、行った所がフランス領の地、彼がドイツ人だったため、第一次大戦が勃発した時に、捕虜になってしまいます。その時、川を渡る一群のカバに遭遇し、生命への畏敬という思想に目覚めたと言います。「生きようとするおのれの生命は、同時に生きようとする他の生命にかこまれている。…個人や社会が、このような生命への畏敬という倫理観によって支配されるところにこそ、文化の根本がある」。私たち、現代人は自然の中に生き、生命の神秘を知り、生命への畏敬の念をもち、謙虚に生きることが大切だと思います。土から生まれたのだから、土に帰るのです。
 人は命をつないでいきますが、私というひとりの人間は死んで断ち切られてしまいます。実に虚しいことです。どんなに地位や名誉や財産を持っていたとしても、死後の世界に持ってはいけないのです。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」と復活されたキリストに出会ったパウロが言います(1コリント15:20口語訳)。どのようによみがえるのか、種の神秘をたとえて、述べています。種がまかれると芽を出し、種の形とは全く違う草木に成長します。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ」るというのです(同15:42ー43)。私が申しあげたいことは命あるものの素晴らしさを感じられれば感じられるほど、復活の素晴らしさを知ることができるのだということ、命のはかなさを感じられれば感じられるほど、復活の栄光と永遠を知ることができるのだということです。

 前置きが長くなりましたが、初穂として、死人の中からよみがえられたイエス・キリストが弟子たちに現れてた記事を見てみましょう。金曜に十字架にかけられ、息を引き取られ、墓に納められました。次の日が土曜安息日で何も出来ないので、駆け足でなされたわけです。遺体に香油を塗るなど出来ていないことがあるので、安息日あけの日曜日に、二人のマリヤとサロメが墓に行きました。墓は横穴、大きな石でふさいでおくのですが、その石が転がっていて、中は空。墓の中には真っ白な長い衣をまとった青年が座っていて、彼女たちに告げます。ナザレ人イエスはよみがえられました。弟子たちとペテロにこう言いなさい。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」。女性たちは震え上がり、気は転倒し、怖くなり、逃げてしまいました。
 復活というのはこの地上ではあり得ないことです。女性たちの驚き様は推して知るべしです。
 次にマグダラのマリヤに復活されたイエス・キリストが現れます。マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせました。「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。」とマルコは事実のありのままを記しています(16:11)。復活というのは話を聞いただけでは信じられないのですね。
 次に、その中のふたりの弟子がいなかのほうに歩いているところに、イエス・キリストがご自分を現され、残っている人たちに報告するのですが、「彼らはふたりの話を信じなかった。」とまたまた記されています(16:13)。
 後になって、裏切ったユダをのぞく十一人の弟子たちが食卓に着いているところにイエス・キリストが現れました。聖書は忠実に記しています。「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである」(16:14)。弟子たちは復活が前代未聞の想像を超えた出来事だったので、話を聞いただけでは信じられなかったのです。復活されたイエス・キリストに出会い、ご人格にふれた時に受け入れることが出来たのです。

 神の子が十字架のあの悲惨な出来事をなせれたことは、信じがたいことです。しかし、私たちの罪を贖うための神の愛の業でした。そして、その方が死人の中より復活された栄光の出来事をなせれたことは、信じがたいことです。しかし、私たちに主と同じ栄光のからだによみがえらすための神の力の業でした。決して、架空の話ではありません。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」のです。そして、この信じがたい、イエス・キリストの十字架と復活が私の救いのためなのだと信じさせてくれるのが聖霊です。それが「福音」なのです。
 オオカバマダラというチョウの生態は自然の神秘、神の創造の神秘です。しかし、イエス・キリストの十字架と復活は超自然の奥義、神の救済の奥義なのです。私たちはもっと自然の懐の中に生き、もっともっと神の懐の中に生きましょう。復活の希望があれば、失敗があっても、思うようにいかないことがあっても、試練が続く事があっても、理不尽なことがあっても、それを乗り越えていけるのです。復活があるから、人を赦したり、受け入れたり、良き倫理が生まれて来るのです。
 だからこそ、イエス・キリストは最後に大宣教命令を出されたのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます…」(16:15-16 )。弟子たちはそれを実践しましたし、私たちも実践するのです。


 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。 マルコ福音書16:6

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