オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

イスラエルに王が与えられる

2010-06-20 00:00:00 | 礼拝説教
2010年6月20日 主日礼拝(1サムエル記8:1~11:15)岡田邦夫(みのお泉教会にて)

 「その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」詩篇24:10

 2人以上集まれば、そこに社会ができ、共に生きようとすれば、政治が生まれます。お互い違う者ですから、対立が生じ、そこで、一致したりや妥協したりして治めていきます。小さな政治から、国家の政治まで、基本は同じだと思います。主に選ばれ、主を信じたイスラエルが、異教と偶像に囲まれた世界で、どう民を治めていくか、現実的に重要な課題でした。エジプトを脱出して独立したイスラエル人は主を信じる信仰で一致し、荒野の旅をし、カナンへの入国をはたしました。政治の形は12部族宗教連合で、モーセとヨシュア、その後の士師たちというカリスマ指導者=神の僕によって、また、信仰によって治められてきました。真に治めるかたは神ですので、聖書ではそれを「さばく」と表現しています。「サムエルは一生の間、イスラエルをさばいた」(7:15)。

◇人の意志が神の意志と一致していく
 ところが、それが続きません。サムエルが年老いて、息子たちをさばきつかさにしたのですが、彼らは「父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」のです(8:3)。祭司エリの息子たちと同じ堕落の道を歩み、それはイスラエルを危機に陥らせることです。そこで、イスラエルの長老たちが集まって、サムエルに申し出ました。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」(8:5)。
 主の答は「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。…今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」(8:7、 9)。王政をとれば、徴兵と重税などがかせられ、民は王の奴隷になり、きっと後悔する日がくると警告します。それでも民は王が必要だと言って、サムエルの言うことを聞こうとしなかったのです。それをすべて、サムエルが主の耳に入れると、主の答えは「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」でした(8:22)。
 他国のように王政をとり、強い国にしたいというのは民の一致した意志、自由意志でした。そして、民がそう願ったからこそ、主が答えられたのです。「わたしの民の叫びがわたしに届き、わたしがその悩みを顧みるからである」(9:16口語訳)。しかし、荒野の時代、占領すべきカナンを目の前にして、主はすでに予測され、こう命じていました。
 「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。』と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない」(申命記17:14ー15)。すでに、神の意志が働いていて、人の意志がひとつになった時に、み業は確実になされ、そして、神の栄光が現されていくのです。

◇神の意志が人の意志となっていく
 いよいよ、王が選ばれていくのですが、その過程は実に面白いものがあります。ベニヤミン族のキシュの息子サウロがいなくなった父の雌ろばを若い者と二人で探しに出かけました。巡り歩いて見つからなかったので、帰ろうとしますが、その町に神の人(予見者)がいるというので、会いに行きました。一方、サムエルはその前日、ベニヤミンの地からひとりの人が尋ねてくるので、彼に油をそそぎ、イスラエルの君主としなさいと御告げがありました。そして、サムエルはサウルが来た時、雌ろばは見つかるので心配はいらない。今日いっしょに食事をすることになっていると言って、客として迎えます。そして、翌朝、屋上でサムエルはサウルに「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」と言って油を注ぎました(10:1)。そして、サムエルはこれから起こることを予見し、ギルガルに行くように言います。サウルがサムエルのもとを去ると、予見されたしるしが、その日に起こり、神の霊が彼の上に激しく下り、預言者の一群の間で預言を始めたのです(10:10)。
 そして、サムエルはミズパで、民を集め、言います。「あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい」(10:19)。そして、主の導きを求めて、くじをします。全部族のうち、ベニヤミン部族があたります。次にその氏族のうち、マテリがあたり、そして、キシュの子サウルにあたります。「サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。サムエルは民のすべてに言った。『見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。』民はみな、喜び叫んで、『王さま。ばんざい。』と言った。サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた」のです(10:24ー25)。
 くじというものは人の意志の働かないところです。確立からいえば、サムエルに油注がれたサウルに、くじがあたる確立は非常に低いわけです。神の意志が働いているとしか、言いようがありません。サウルがくじに当たるように神の手が働いていたのか、それとも、神は予めサウルがくじに当たることを知っていて、時間を逆行して、色々なしるしを行わせ、サムエルに出会わせ、雌やぎを迷わせたのかも知れません。民からすれば、神の導きと信じ、単にくじを引いて、王を選出したようですが、主は事前に用意周到に準備されていたのです。
 その後、アモン人が攻めてきた時に、民はたいへん恐れたのですが、サウルに神の霊が下り、イスラエルは33万人が結集し、一夜にして、アモン人を完全に打ち破りました。「それからサムエルは民に言った。『さあ、われわれはギルガルへ行って、そこで王権を創設する宣言をしよう。』 民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。彼らはそこで主の前に和解のいけにえをささげ、サウルとイスラエルのすべての者が、そこで大いに喜んだ。」と聖書に記されています(11:14-15)。

 ひとすじの光もプリズムにかければ、七色に別れて見えます。赤外線や紫外線もあります。ひとすじではなく、光のたばなのです。私たちはひとすじの導きと感じることにも、神のさまざまなことをたばねた導きなのです。もう一つ大切なことは、聖霊の導きということです。サウルが油注がれたあと、預言者の一団に出会った時に、神の霊が下ったということが重要です。くじの後、アモン人襲来の時、その神の霊がサウルに下って、戦いを勝利に導きました。聖霊というお方はダイレクトに神の意志を私たちに伝えるお方であり、私たち自身の霊を共感させ、私の意志にさせていくお方なのではないでしょうか。

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