もう山椒魚を笑えない。
今年二月に母が倒れてから九ヶ月がたった。その間に病院を何度も転院して、現在は青梅の山中にあるリハビリ病院に入院している。ギラン・バレー症候群の治療は既に終えているが、その症状である全身麻痺からの回復が思わしくないからだ。
まったく動けなかった初期の状況を思えば、少しは動けるようになったことは未来に希望を抱かせるものであった。しかし、その後がいけない。どうみても半年前よりも、身体の硬直が進んでいるのだ。
もちろん、リハビリの効果もあって部分的には改善している。しかし、寝たきり状態が長く続いたが故に、動かさずに済んだ部分の関節が固まりつつある。これを動かすのは痛いようだ。
それだけではない。鼻チューブでの食事が続いたせいもあるが、咀嚼力が低下している。以前は食べられたものが、食べにくくなっているようだ。
そして何よりも、母の笑顔が減った。半年前よりも、あきらかに表情が乏しくなっている。頭はしっかりしているはずなのに、外部への関心が減りつつある。もしかしたら希望をなくしかけているのかもしれないと危惧している。これではリハビリは進まない。
身体が大きくなりすぎる前に岩穴を出ていれば、閉じ込められることはなかったはずの山椒魚のように、母は苛立ちと諦めを交互に繰り返しながら、次第に諦念の姿勢を見せるようになってきていた。
毎週、日曜日の朝に私は母を見舞っている。トレーナーとのリハビリの時間に付き合うようにしているからだ。ただ、その日は昨夜からの微熱が残り、午前中は家で寝て過ごし、平熱に戻ってから母を見舞った。
私が朝に来なかったことを愚痴るでもなく、呆然と病室で寝ている母の手足をほぐす。時たま「痛い」と言うほかは、ほとんど会話も無い。いや、口に唾や痰がたまっているようで、看護師を呼んで除去してもらうと、ようやく「ありがとう」の言葉が聞けた。やはり喋りづらかったようだ。
来週は朝に来て、リハビリに付き合うよと告げると、少し微笑んだ。昨夜から風邪気味で体調悪いから、今朝はこれなかったけど、来週は大丈夫。だから、それまで頑張ってな、と言って席を立った。
すると、はっきりした口調で「薬は飲んだのかい?」と訊ねてきた。あぁ、もちろん飲んでから来たよ。だから、もう大丈夫だよと応えると「寒くなってきたから、身体を冷やさないように気をつけるんだよ」と心配そうにしている。大丈夫だよと笑顔で応えて、病室を出る。
病棟を出て、駐車場の車に戻り、口に出せなかった言葉を噛み締める。咽喉元まで出かかった科白だ。口に出したら泣いていたかもしれない。
「俺のことは大丈夫。それよりも自分の身体のことを心配してくれよ。もう少しリハビリ、頑張ってくれよ」
分っている。寝たきりになろうと母は母。やはり子供たちのことを心配してしまうのだろう。思えば母に心配かけてばかり鰍ッていた子供だった。学校に呼び出され、病院に呼ばれ、時には警察からも呼び出された母。いつも母に迷惑かけていた子供たちだった。
ようやく母に迷惑をかけることもなくなり、むしろ親孝行しなければと思っていた矢先の闘病生活であった。もう、俺たち子供は大丈夫。これからは自分のことに集中してリハビリを頑張ってほしい。
でも無理だろうな。たとえ寝たきりになろうと、母にとっては子供は心配の種。いや、母にとっては、子供たちの心配をすることこそが、自らの存在価値なのかもしれない。
母を心配させることが、親孝行だなんて思わないが、それでも無言で心を凍らせていくことを放置するよりも良いのだろうか。私も妹たちも、今は母のことだけが最大の心配事だというのに。
世の中は、どうしようもなく無情であることがある。学生の頃、教科書で「山椒魚」を読んだ時は、若干の哀れみはあったとしても、やはり笑ってしまったものだ。
若かりし心には、自分の意思で安楽な立場を選んだが故の悲劇を失笑して済ませてしまった。しかし、安楽な立場を選ぶことを、素直に批難できなくなった今、山椒魚を笑うことは出来なくなった自分に気がついた。
今更ながら、山椒魚が岩穴から出てくる日が来て欲しいと願わずにはいられない。
昨今、流行のメイド喫茶と言う奴が嫌いだ。なにが「お帰りなさいませ、ご主人様」だ。手前なんぞからご主人様呼ばわりされる覚えはないわい。
ついでだから言っておくと、コスプレという奴も嫌いだ。せいぜい温泉旅館での帯グルグルで十分だ。え?似たようなものじゃないかって。うぅ~、まあ、あれはあれで後のお楽しいがあるし・・・
なに?銀座のクラブや新宿のキャバクラ遊びとどう違うのかって・・・うぅ~、あまり大差はないかもしれない。困った、段々弱気になってきたぞ。
と、とにかくだ。メイド喫茶は嫌いだ。なにが嫌いだって、あの人の弱みにつけこむ厭らしさが嫌いだ。
そりゃ、誰だって他人からリスペクトされたい。でも、現実には安い給与でこき使われ、頭ごなしに指示されて不満を溜め込むばかりだ。
だからメイド喫茶に行って、可愛いメイドさんたちから「ご主人様~」と呼ばれて自尊心を回復したい気持ちも分らないでもない。行ったことがないので良くは知らないが、千円札数枚で楽しめる癒しの時間なのだろう。
高級クラブやキャバクラで数万円を散財することを思えば、はるかに健全な(あくまで財政的にだが)遊びなのかもしれない。
だとしても、やっぱり私は行く気になれない。小娘たちの小細工に奔走されるよりも、熟練の妖婦たちの手管にこそほだされたい。同じ騙されるのなら、レベルの高いほうがいい。
ヘンかな?
まァ、そんな訳で随分と痛い授業料をお姉さま方に払ってきたのは事実だ。この十数年の散財を計算すると、高級外車ぐらい買えたかもしれない。
もっとも最近は、夜はしずかに休みたい気持ちが強く、夜のお店に行ってもマッサージや指圧だったりする。医療費控除の対象にならないのが辛いが、体調をベストコンディションに保つための必要経費だと割り切っている。
表題の書は、裏社会のルモセ意とする著者の詐欺事件をまとめたものだ。光クラブから投資ジャーナル、ココ山岡、豊田商事と現在も絶えることなく続く詐欺事件を、時系列的にコンパクトにまとめている。
読みながら、つくづく思うのは騙される側の心の弱さだ。詐欺事件の特徴の一つに、騙された被害者の側が事件後に負うのは経済的損失だけではなく、精神的損失が大きいことだ。被害者であるのに、同情されるよりも侮蔑を受けることが少なくないのが詐欺事件なのだ。
嘘を付き合うのが人間の本質だと言えばそれまでだが、それにしたって罰則が甘すぎる。詐欺に関しては、なぜか日本の刑法は加害者に甘い。詐欺の被害は、まずほとんどが補填されないことを思えば、もう少し罰則を厳しくしたほうがいいと思う。
ところで、私が散財してきた夜遊びだが、あれは詐欺のうちにはいるのだろうか。いや、そうではあるまい。好きでもない男に媚売っていた御姐さんたちの心労は決して軽くないと思う。本気で結婚する気もない癖に、空ろな愛を口にした私とて嘘つきであることも間違いない。
互いに了解の上での騙し合いが、夜遊びの仁義ってものだ。そう思い込むことにしよう。
まぁ、冷静に思えば騙した相手に騙されたとの思いを抱かせないことこそ、最高の詐欺だとも思いますがね。
豊かになった日本人が失ったものは少なくない。
なかでも活力とゆうか、ヴァイタリティの減退は若い者ほど著しい。そのことをつくづく思い知らされたのが、ファンケル化粧品の海外販売だ。
私も含め男性は「ファンケル」といってもよく分らないと思うが、女性にとってはかなり有名なブランド名であるらしい。普通、化粧品には様々な保存料が添加されており、数年たっても効力が落ちない工夫がされている。
ところがファンケル化粧品は、添加物を一切くわえずに作られる。そのため日持ちしない化粧品なのだが、肌が弱い女性にとってはありがたいものであるようだ。
とある華僑夫人は、肌が弱くて困っていた。経済的には恵まれていたにも関らず、自分の肌にあった化粧品が見つからず、それが悩みの種であった。
その華僑夫人が偶然、ファンケルの化粧品に出会った。ここで初めて自分の肌に合った化粧品にめぐり合えた。歓喜した彼女だが、当時ファンケルは海外販売をしていなかった。
年に数回は来日していた夫人は、ある日ファンケルの本社に押しかけて、ファンケル化粧品のシナでの販売をやらせて欲しいと、社長に直談判を望んだ。
しかし、なんのコネもなく、事前のアポイントメントさえなかった夫人が社長に会えるはずもない。そこでやり方を変えた。
銀座の中央通りにファンケルのお店はある。そこを訪れた夫人は、一日で100万円の買い物をした。当然に店長が挨拶にくると、すかさず社長への面談を申し入れた。
そんな申し出は受け入れられるわけもなく、店長は丁重にお断りをする。
しかし、夫人はめげなかった。翌日も店に現れて100万円の買い物をして、同じ要求を繰り返した。困惑の体で店長はひたすら低姿勢でお断りをせざる得なかった。
ところがその翌日も夫人は店に現れて100万円の買い物をしてのけた。ついに店長が陥落した。本社へ連絡して、人脈を駆使して面談の取り付けに奔走した。
そこから話はとんとん拍子で進み、現在ファンケルの売上の3割は海外が占める。北京の目抜き通りの一番目立つ場所にファンケルの看板を出し、富裕層向けに日本の3割り増しの値段で売りさばく。
これが現在のシナ人たちのヴァイタリティだ。好き嫌いは別にしても、この異様な活力には羨望を覚えざる得ない。そして遠い目で過去を振りかえざる得ない。
明治維新の後、海外に出て行った日本人たちは欧米の進んだ文明に触れ、溢れる熱意をもってそれを持ち帰り、近代国家日本の躍進に大きく寄与してきた。太平洋戦争の敗北と廃墟のなかから立ち上がった日本人は、敗北を噛み締めつつも、新しい時代に向かって欧米に優れた知識を学び、それを日本において実現させた。
かつての日本人の姿は今は無く、かわってシナ人が欧米や日本で華々しく活躍する。正直、いささか忸怩たる気持ちが澱むのは否定できない。
私はシナを日本の潜在的敵国だと認識している。敵だからこそ、相手を良く知らねばならぬと考えている。敵だからこそ、礼節をもって対峙し、礼服の下に武器を隠し、覚悟をもって応対せねばならぬ。そして敵のなかにこそ、協力者を持ち、必要な情報を得る手段を持つべきだ。
ほとんどのシナ人は日本が大嫌いなのは事実だが、日本製品は大好きだ。愛国心はあってもシナ人の作った製品よりも、嫌いな日本人が作る製品のほうにこそ信を置くのがシナ人。
もっといえば、シナ(中華)を愛せても北京政府は愛せないのがシナ人。この複雑怪奇な心情を持つ人たちといかに付き合っていくか。21世紀の日本が抱える大問題だと私は思います。
目が合ってしまった。
夜分に車で甲州街道を走らせていたときだ。コンビニに立ち寄り、再び車に乗り、買った眠気覚ましのガムをポケットから取ろうとするが、シートベルトが邪魔で取れない。
一度シートベルトをはずしてガムを取り出す。丁度折りよく信号が赤になったので、ゆっくりと封を開けてガムを口に放り込み、再びシートベルトに手をやった時だ。
視線を感じたので歩道側を見やると、警官がこちらを熟視している。ん?はて何だ。
警官がこちらに歩みよってきたので窓を開けると「シートベルト未着だね。違反の現行犯だから、車を寄せて降りてきて」と言いたれやがった。
おいおい、はずしたのはガムをとるためで、車の走行中にはずしていたのはほんの数秒だぞ!
車を降りて事情を説明するが、現行犯との一点張りで聞く耳もたず、しかも賢しげに罰金はなくて、ただ一点減点だけだと言う。そうゆう問題じゃないだろうと思うが、約束の時間に遅れそうで気が気でない。
たしかにシートベルトをはずして車を走らせた時間はあった。だが、ほんの数秒に過ぎず、しかも減速中のことだ。腹が立ったので、抗議するも現行犯だと繰り返すばかりで、こちらの言い分なんぞ言い訳としかみてないことは明白だった。
約束の時間が迫ってきたので、悔しいがサインをしてやる。真面目な話、サインを拒否して裁判までもっていっても、反論のための具体的証拠に乏しいことは分っている。冷静にみて、勝ち目は薄いと思う。
だが、時間が経つごとに腹立たしさは、いや増すばかりだ。サインなんぞ、するんじゃなかった。
多分、あのマッポ野郎、私がシートベルトに手をやったのは、警官に見られていると思ったからだと勘違いしやがったのだろう。
冗談じゃない。私はシートベルトの着用が強制化される前から自主的に使っていた。交通法規が求めるからではなく、自分の身の安全のためにしていたことだ。免許をとってから30年、ほとんど習慣的にシートベルトは締めていた。
それを恩着せがましく罰金がないなどとほざきやがる。警察対策でシートベルトをしているんじゃない!
まったくもって腹立たしい。どうも、今年は交通違反の当たり年らしい。かつて十代の頃に免許取り消しとなって以降、一年に二回も捕まるようなヘマをしたのは初めてだ。
交通違反なんざ、運転するたびにやっている。そうでなければ交通の流れの妨げになるし、道路交通法自体が実情にあっていない欠陥法だと私は確信している。だから、違反をすることに罪悪感なんざない。
ただ、捕まるようなヘマをしたことが悔しい。昔、警察を敵視していた頃は、これほどヘボなことはしなかった。むしろマッポを出し抜くことを得意としていたぐらいだ。
長年真面目な社会人をやっているうちに、どうも私はボンクラになったらしい。今回だって目をあわす前に、マッポの姿を見ても、見ぬふりして、ばっくれる手もあったと思うぞ。マッポに気がつくのが遅れた私がトロかっただけだ。
今回の失敗を糧に、今後は狡猾に交通違反をすることにしよう。警察は敵!これが私の反省の仕方だ。誰が素直に反省なんぞ、してやるもんか!
このたび世間をお騒がせしたこと、及び、多くの人々に多大なるご迷惑をおかけしたことを一番最初に心からおわび申し上げます。本日私がここに宿泊致しますのは、あなたたちマスコミのおかげです。私がこの建物を出たならばさらに多大なる迷惑を多くの人々にかけてしまうからです。本日、私がここに泊まるのは私の意志に基づくものであります。過熱した報道を少しは控えてください。
尖閣諸島海域でのシナ漁船の横暴振りを、ユー・チューブに投稿したと告白した海上保安庁の職員自筆の謝罪文が上記のものだ。これはネット上に配信されたニュースから転用したものだ。
ところが大手新聞の記事を読むと、その謝罪文は大幅に改竄されていた。なにせ海上保安庁の職員が自筆で書き、それを読み上げたはずなのに、新聞記事ではその大半が削除されている。つまりマスコミ批判の部分がだ。
なにが起こったのかは、容易に想像がつく。海上保安庁の職員の自宅、勤務先などに対して、マスコミが大挙して群がり周囲に迷惑をかけているのだろう。
許可も無く公道を占拠し、周辺に交通渋滞を引き起こすのは朝飯前で、無断で私有地に入り込んで有利な撮影ポジションをとろうとするマスコミの取材は異常にして、日常的なものだ。
報道の自由を盾に、平穏に暮らす人々の安穏を妨げる横暴ぶりは今に始まったことではない。私はこれを「マスコミ公害」と名付けている。
社会の木鐸としてのマスコミの機能を無視する気はないが、だからといってこのような横暴を見逃してやるほど私は寛容ではない。マスコミへの信頼が低下し、新聞の購買量は低下し、TVの視聴者も減る一方なのは当然だと思う。
マスコミが編集と称して事実を切り刻み、校正と称して報じたい事実だけを選別することを全て否定はしない。だが、マスコミ自身を批判する事実を隠蔽することが、正しい編集校正とは思えない。
要するに他人を批判する自由は主張するくせに、他人が自分を批判する自由は認めないわけだ、日本のマスコミ様はよ。天に唾する行為だと分らないのが不思議で仕方ないね。