戦国大名のうち最強と謳われたのが武田信玄である。
でも、私はなんとなく疑問に思っていた。最強だとする根拠が恣意的ではないかと思うからだ。決して弱いとは思っていない。上杉謙信との川中島の戦いが有名だが、なんとなく誇張された感が否めない。
江戸時代の講談話などが最強説の一番の根拠になっているのではないかと思う。たしかに強いと云われるだけの実績はあった。またライバルであった織田信長が、十二分に勝てると判断するまで直接の戦いを避けたことも、最強説を裏付ける一因でもある。
ちなみに信長は、信玄の死後、長篠の戦いで3千丁の鉄砲を用意して、勝頼率いる武田軍団を打ち破っている。現在価値にして一丁、一億円とも云われた鉄砲を3千丁用意したことも凄いが、それ以上にほぼ日中尽きることなく撃ち続けることを可能にした多量の弾薬を用意したことを評価したい。これこそ信長の慎重さ、すなわち如何に武田軍団を恐れていたかを示す証拠でもある。
また信玄の晩年、打倒信長の目的の下、南下して駿河を落とし、三方が原で家康を蹴散らした実績からして、武田軍団の強さは本物だと思う。この時、敗走する家康は恐怖のあまりに糞尿を漏らしたと伝えられる。それを隠さず、自省のために絵にして残した家康も相当なものだ。
後年、戦上手な秀吉と信長の後継を巡って戦った際も、野戦では勝っているのだから、家康も相当に強い。その家康を破ったからこそ、武田信玄は最強の戦国武将としてその名が伝えられている。
しかしながら、その最強説が出たのは江戸時代である。神君家康公に勝った武将として信玄が讃えられているのだが、これが胡散臭い。当時、武田家は滅びた家門であり、いくら讃えても実害はない。
実際、戦国時代には武田に勝るとも劣らない強い大名は幾人もいた。上杉謙信もその一人だが、他にも四国の長曽我部、薩摩の島津なども野戦の強さでは、決して信玄に劣るとは思えない。
ただし、いずれも江戸時代における有力な外様大名である。潜在的には徳川家の敵となりうる存在である。その点、武田家は事実上滅びている。だからこそ、武田信玄最強説は幕府に容認された。
最終的には、織田・徳川連合軍に武田家は敗れているのだから、信玄をいくら賞賛しても幕府の権威は揺るがない。だからこそ江戸時代に流布した信玄最強説には、疑いの目を向けざるを得ない。
それでも武田信玄率いる武田軍団は相当に強かったとは思っている。ただ、織田信長の先進性には及ばない。これは武田に限らないが、当時の兵士の大半は、農民兵が主体である。半農、半兵が当たり前であった。
しかし、信長は少し違う。楽市楽座などを徹底し、経済的に繁栄した織田家では、貨幣の力で常用兵士を育成した。当時から金で雇われる傭兵はいたが、織田家ほどその育成に力を入れた大名はいない。
甲斐の地で戦乱に明け暮れた武田の農民兵は強かった。しかし、農民故に春先から秋の刈り取りまでは、どうしても農業優先となる。だから主な戦いは、農業が暇な時期となる。
しかし農民兵を除いた信長の兵士たちは町暮らしであり、貨幣で生活しているが故に、季節を問わず戦える。しかも、専門の兵士として訓練されているが故に、新兵器である鉄砲に対しても、その熟練に時間を割けた。だからこそ、信長は畿内を統一できた。
その信長をもってしても、甲斐の武田軍団の強さは脅威であったのだから、相当に強かったことは確かであろう。その武田軍団の中でも、軍師として伝説的な存在である山本勘介を主役にもってきたのが表題の作品である。
勘介は謎が多く、戦後の一時期まではその実在さえ疑われたほどだ。イマイチ、信頼性の乏しい甲陽年鑑以外に、勘介の名を記した歴史資料の発見により、よくやく実在の可能性が高まった御仁である。正直、軍師というよりも相談役に近かったのではないかと思うが、この謎の人物を上手く描いている。
NHKの大河ドラマにもなっていて、私もおぼろげながら記憶にある。資料に乏しい武田軍にあっても、とりわけ謎多き人物だからこそ、作家にとって筆の奮い甲斐があったのだろうと思う。
そのせいか、あまりに読みやすくてビックリしたほどだ。このような練達の文を読むと、自分はまだまだだと思わざるを得ませんね。歴史の知識もまた然り、きっとまだまだ学ぶべきこと、知らないことって沢山あると思います。
これは、これで楽しみなのですけどね。