のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『イケムラレイコ展』

2011-12-30 | 展覧会
冬休みにはベン・シャーン展を観に神奈川まで行ってやろうと意気込んでおりました。
が、来年2月には名古屋市美術館に巡回して来るとを知ってあっさり取りやめ、まあその代わりというわけでもないのですが、三重で開催中のイケムラレイコ展に行ってまいりました。
三重県立美術館/イケムラレイコ うつりゆくもの 2011.11.8-2012.1.22

図書館で借りたカレル・チャペックの『山椒魚戦争』を片手に、例によって青春18きっぷでごとごとと、京都よりも暖かいといいなあと期待しつつ。
米原行き快速の途中で草津線に乗り換え、柘植(つげ)→亀山と進んで行きますと、車窓の風景がずんずんとのどかになってまいります。両側に針葉樹の山が迫る谷あい、映画のワンシーンにもってこいの風情のあるトンネル、風が吹いたら車両がころんと転がり落ちそうな吹きさらしの線路。ワンマン単車両運行で、運転士さんの指差し・声出し確認の声も間近に聞こえます。
意外なほどこぢんまりとした津駅を出て西側の坂をてくてくと上って行くと、看板どおり10分で美術館に着きました。

展覧会情報サイトで名前を見たときはフーン誰だったかいのう、としか思わなかった、イケムラレイコというアーティスト。『芸術新潮』12月号で展覧会場の写真を見て、はたと思い当たりました。ああ、これは「ドローレス」を造った人にちがいない。
5年ほど前になりましょうか、ワタクシがかの心地のいい豊田市美術館を初めて訪ねた時、白い明るい階段の下にたたずんでいた女の子が「ドローレス」でございます。台座も含めてせいぜい高さ140cmほどの異形の少女像、そのわびしいたたずまいは強烈に心を惹き付けるものがあり、作り手の氏名はさておき作品の像/イメージはしかと記憶に刻まれたのでございました。
今はなきサントリーミュージアム天保山での『レゾナンス 共鳴』展でも絵画作品を見ていたことが後で判明したのですが、この時の作品はそれほど心に響くものではありませんでした。

さて美術館にたどり着き、変な導線にとまどいつつも第一室へ。
主にドローイング作品が展示されております。ぶっきらぼうながらもどこかユーモラスな線画の数々、シンプルなものほど魅力的でございました。マチスピカソを引き合いに出すまでもなく、うまい人は一本の線をひいてもうまいもので、シンプルな画面ほど、そうした基本的な技術の高さや造形センスをよく味わえます。
Leiko Ikemura - Past Auction Results

透明感溢れる色彩が美しい風景画(というよりほとんど抽象画)の第二室を抜けると、一転してブロンズやテラコッタの作品が登場いたします。「うさぎ寺」「キャベツ頭」などタイトルはそらっとぼけているものの、台座の上に鎮座しているのは、目鼻立ちのハッキリしない、人とも動物とも、あるいは植物ともつかない異形の者たちでございます。またその形体がいたって有機的であるだけに、ふと動き出しはしまいか、口をききはしまいかと思わしめる奇妙な存在感があり、いずれも可愛らしさとほんの少しの不気味さが共存しております。

目鼻立ちがハッキリしないといっても、例えばブランクーシの新生児眠れるミューズを見てもちっとも不気味とは感じません。それはブランクーシの造形が、それ自体できっぱりと動かしがたく、美的に完結しており、それによって一種の安心感・安定感がかもし出されているから、また鑑賞者である「有機体としてのワタクシたち」のありようと、この上なく研ぎすまされ美的に完結した作品との間に、はっきりとした隔絶があるからではないでしょうか。
それに対してイケムラ氏の立体作品には、完成しているといえば完成している、しかし欠けているといえば欠けている、「ここで完成、でもまだ途中」という何とも奇妙な印象を受けます。そのありようは、時の流れの中で常に変化のただ中にありつつも、今というこの瞬間においてはこの上なく完成されている存在(最善説ではなく、単に「今」が時間軸における突端であるという意味で)であるワタクシたちのありように、ことさら似ております。そのありようの共通性が、鑑賞者に思いがけず鏡を突きつける格好となり、見る者の心をざわつかしめるのではないかと。

てなことを考えつつ次の展示室に入ると、幻想的な色調の油彩画にかこまれて「ドローレス」がたたずんでおりました。

artnet Galleries: Dolores (Einbeinige) by Leiko Ikemura from Galerie Karsten Greve, Cologne

dolore(s)とは一般的な女性の名前である一方、スペイン語で痛み、苦しみ、哀しみを意味する名詞(英単語で相当するのはpain)なのだそうで。↑のサイトではドイツ語の「Einbeinige 一本足」というタイトルになっておりますが。
うつむいた顔、奇妙なヘアスタイル、棒ぐいのような手に、長く垂れたしっぽ。末端のかたちの不鮮明さゆえ、このブロンズの女の子は未完成のまま打ち捨てられたようにも、あるいは長い間地中に埋もれていたために欠けてしまった古代の遺物のようにも見えます。極端に短い両腕を顔の前に持って来て、片手を強く右目(とおぼしき場所)に押し当て、というよりも、めり込ませております。
手首から先を切り落とされたかのような短い腕と、言いがたい哀しみに耐えているようなそのポーズは、グリム童話の中でもワタクシがとりわけ好きな『手のない娘』を連想させます。うかつにも悪魔と取引した父親によって両手を切り落とされた娘は「すりこぎのようになった両腕を目に押し当てて一晩中泣いた」のち、これから先は苦労はさせないから、と引き止める両親を退け、自ら進んで家を出て行くのでございました。
「ドローレス」と「手なし娘」の間に関係があるかどうかはさておき、そのよるべなさ、いたましさ、「世界中から見放された」かのような孤独感と、それでもくずおれることなく、また泣き叫ぶこともなくじっと耐えている内省的なたたずまいは、「手なし娘」さながらの哀しみの強度を持って迫ってまいりまして、何かこう、見ていてたまらないような心地がするのでございました。

山水画風の作品や海を連想させる油彩画を経て、最後の展示室には「ドローレス」と同様に腕の短く頭の大きい、5体の少女像が展示されておりました。しかし彼女たちには「ドローレス」のような沈痛さはなく、夢見るように身を横たえ、うつろなスカートに風をはらませてどこかへ飛んで行く途中、あるいは流れて行く途中の姿ように見えました。その中で唯一身を起こしている像には頭部がなく、何かで満たされるのを待っているかのように、中は空洞でございました。
完成しているけれども完成していない、常にうつろい変わって行く存在を表現するアーティストのひとつの到達点とも見えます。しかしこの到達点も単に時の突端である「今」という場所で見るからそう呼びうるだけであって、イケムラ氏の表現世界はここからなおうつろい、展開して行かれることでしょうし、そう期待しております。

とまあそんなわけで
期待したほど暖かくはなかった三重で、期待した以上に充実した年末の一日を過ごし、オカシイコワイ『山椒魚戦争』を引き続きひもときつつ帰路についたのでございました。
18きっぷでは年内に滋賀県立陶芸美術館へも行ってやろうと画策しておりましたが、寒いわしんどいわで結局とりやめ、年末はおうちでゆっくり過ごすことにしました。
歳をとってますます出不精になりつつあるなあ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿