のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

2009日展2

2010-01-22 | 展覧会
1/20の続きでございます。

村山春菜さん「郷」
(↓こちらで見られます)
日展 - 主な作品 日本画
このかたの作品も-----画像が無かったので言葉だけでのご紹介になりましたが-----前回の日展レポで少し触れさせていただきました。このときはたしか初入選であったと思いますが、今回は「特選」の札とともに堂々と第一室に展示されておりました。

白がちの大画面にうねりながら伸び上がるビル群。ぐいぐいと引かれた線が形作るその動的なフォルムは、鑑賞者をぐっと引き付ける、いや引っ張り込むと言いたいほどの不敵なエネルギーに満ちております。青・黄色の配置や中央を大きく開けた構図に手錬れ感を光らせつつも、かたちと色彩の自由さゆえでございましょうか、子供の絵が持つ問答無用な雰囲気も漂っております。
ビルや高架といったなんて事のない都市風景をこんな風に料理してしまう感性と力量はまことに素晴らしく、今後のご活躍も大いに期待したい所でございます。

日本画をもうひとつ。
JR札幌駅の出入口を描いた上田とも子さんの「旅への入口」(残念ながら画像は見つけられませんでした)は暖かく落ち着いた色使いとてらいのない風景描写が印象的な作品でございました。画面の中ほどにはデイパックの若者や家族連れなど旅姿の人々が描かれ、その奥の、改札口があるであろう方向は、人々の期待を呼び寄せるかのように、オレンジ色に明るんでおります。ガラスや金属のとぅるっとした輝きの表現や、柱や標識やエスカレーターによって形成される、縦横斜めに画面を交錯する線のバランスも心地いい。とりわけ感傷をかきたてる風景ではございませんし、ごく都会的な直線や光沢といった冷たい印象のものものが画面を占めてしているにもかかわらず、何となく心温まる絵でございました。

単に好みの問題かとは存じますが、日展の洋画部門にはあんまり期待しないのがワタクシの常となっております。しかし今回はぐっとくる作品が、ひとつと言わずございました。
わけてもぐぐっと来たのが
岡田猛さん「生命」
(↓こちらで見られます)
日展 - 主な作品 洋画
画面のそこかしこに配されたシダや蝶や鷺のシルエットは、生物の造形性、その力強く均整の取れた美に、改めて眼を開かせてくれます。そうした強靭なシルエットと重なり合いながら描かれた女性は、片手を胸に当て、何か思いがけないものに出会ったかのような表情で立ち尽くしております。自らの心臓の音、生命の流れる音に驚いているのか。人間もその一端を担っているはずの、生命の連環に思いを馳せているのか。どくどくと、みしみしと、内側から脈打っているような、心をざわつかせる作品でございました。

そんなわけで洋画部門で思いがけず時間をくい、工芸部門をえいやっとひとおおり駆けぬけて、書道はもとよりすっとばし、彫刻部門へとたどり着いたのがもはや閉館30分前。ううむ、やっぱりきちんと鑑賞しようと思ったら最低4時間は見積もらねばいかんかと後悔することしきりでございました。
悔しいほどの駆け足鑑賞の中で印象に残ったものをだだっと挙げさせていただきますと。
(以下の作品は全て↓で見られます)
日展 - 主な作品 彫刻
欠けたる美にサモトラケのニケを連想させる、野間口泉さんの「アプサラII」
アルカイックな微笑みを浮かべた楠元香代子さんの「サラスヴァティー(弁財天)」
生身の人間のような繊細な肌合いを見せる勝野眞言さんの「江」
そして前回のろに大変強い印象を残した片山康之さんは「夜ノ化身」と題された、謎めいた詩のような作品を出品しておられました。
型通りの、と申してはなんですが型通りの裸婦像たちがずらりと並んで、あるいは誇らしげに胸を反らせ、あるいは足を一歩踏み出して、均整のとれたぴちぴちの肢体を誇示している中、空豆のように身を丸めてひとり瞑想しながら宙を漂う「夜ノ化身」の内省的な表現は、今回も異彩を放っておりました。
黒い胴体部分は継ぎ目のない一木で作られており、むき出しの枝々によって支えられたその姿はそのまま、痛ましくもその身に枝を突き立てられた姿でもございます。樹木がその身の内に、一年ごとに繰り返す激しい寒暖の痕跡として年輪を秘めているように、この人間とも精霊ともつかぬ像は、丸めた黒い身体の内に、諸々の痛みと忍従に根ざした語り得ぬものものを秘めているようでございました。

かくして、日展観に行くときはお昼には美術館に入っておかねばならぬなあと悔やみつつ、なんか前も同じとこで同じことを考えてたよなあと軽いデジャヴュを覚えつつ、閉館アナウンスに追われて展示室を後にしたのでございました。