のろや

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『ファウスト』

2013-03-28 | 映画
半年以上前に書きかけてほったらかしていた記事を掘り返しました。

というわけで
アレクサンドル・ソクーロフの『ファウスト』でございます。

例えるならばヒエロニムス・ボスの絵画のような映画でございました。
グロテスクで魅惑的なイメージでもって観客の目を捉える一方、繊細な色彩で構築されたその部分部分はいたって謎めいておりまして、深読みの余地をたっぷり残しております。
また所々妙にユーモラスで、何か深遠なものごとを象徴しているのか、あるいは単に作者の悪ふざけなのか判然としない部分もございます。
理屈は脇において美的な点だけで申しますと、全編がもうひれ伏すしかないような怒濤の映像美でございます。重暗い悪夢のような絵と、夢幻的でうっとりするような絵が同衾しておりまして、美しくも禍々しい。ファウストとマルガレーテが水の中に倒れ込んで行くシーンに立ち会うだけでも、劇場に足を運んだかいがあったというものでございます。

『ファウスト』予告編


悪魔との契約の内容をマルガレーテとの一夜のみに限定したり、ヴァレンティン殺しの後日譚を丁寧すぎるほどに描くことにより、ゲーテの『ファウスト』をいやに小さな話にしてしまった感はございますけれども、ある程度の尺に収めるためには妥当な措置かもしれません。
そも、映画の冒頭でわざわざ「ゲーテの原作より自由に翻案」と断ってあるとおり、これはゲーテ作品の映画化というよりもゲーテの土台を借りてソクーロフ監督が好き勝手やった映画、と言った方がよろしうございましょう。予告編の「不朽の名作を堂々の映画化」といううたい文句はなかなかにくせ者ではございます。そう、「堂々の映画化」なのであって、決して「忠実に映像化」ではないのでございました。

去年オーストラリアで、iPhonの地図を頼りにドライヴしていたら遭難しかけた、というニュースがございましたでしょう。本作もそれと似ておりまして、ゲーテの原作という立派な地図があるから安心と思って観ていると、いつの間にやら全く見知らぬ所に連れて行かれます。

人生の虚しさにさいなまれる博士や美しきおぼこ娘、その兄の殺害、悪魔との契約といった道具立ては同じでも、設定をだいぶいじっている部分がございます。ファウストは老人ではなく、若返り薬なんぞ必要ないぐらい元気なおっさんですし、ワーグナーは凡人というよりほとんど白痴じみておりますし、メフィストフェレスは高利貸しときております。
またストーリーも、生を味わい尽くす為の悪魔との契約、というシンプルな枠組みになかなか収まろうとせず、原作にはない禅問答のような台詞をちりばめながら、生死の境すら曖昧な場所へとゆらゆら漂って行くのでございました。
原作から離れた描写の各々が、何事かの比喩であることはなんとなく知れるのですが(例えば、結局全然助けてくれないファウストの父親=神)、中には何を象徴しているのやらさっぱり分からないものもございます。

そうそう、メフィストフェレスですよ。
ワタクシはメフィストというキャラクターが大好きでございます。この文学史上に輝くトリックスターがどう料理されているかを見るのが、この映画を観に行った一番の目的と申してもよろしうございます。
本作にはメフィストと名乗る悪魔そのものは出てまいりませんで、上に申しましたように高利貸しであるマウリツィウスという人物が悪魔役をつとめるのでございますが、こいつがまた、実にいいキャラでございまして。

金を借りに来たファウストに「生に価値はありません。むろん死にも」と深刻ぶった台詞を吐くかと思えば、ファウストの著作を引っ張りだして来てちゃっかりと著者のサインを求めたり、ファウストが自殺用にとキープしていた毒薬を栄養ドリンクか何かのようにすいーっと飲んでしまったり、それで死にもしないでただお腹をくだして困っていたり、どやしつけられるといちいち「あわわ、背中の羽が...」と騒いだりと、真面目なんだかふざけているんだかさっぱり分かりません。
食えないトリックスターであるという点ではゲーテのメフィストと似たようなものでございますが、神様と直接かけあったり使い魔に指令を出したりという悪魔らしいことをちっともなさいませんので、単なる「自称・悪魔」の変なおっさんとも見えます。

滑稽である一方、挙動にも容姿にも何かこう、じっと目を注がずにはいられないような醜怪さがあるマウリツィウスの造形について、ソクーロフ監督いわく「不愉快で不健康なキャラクター」、「人々が本当は避けたいと思っているのに、結局は避けて通れないような抗い難い存在」。
嫌悪感をもよおすのにまじまじと見ずにはいられないものや、背徳的であるがゆえに惹かれるもののイメージがしばしば現れる本作において、ボス絵画的な陰影をいっそう強めているのがマウリツィウスというキャラクターでございます。

演じているのはいったい何者かしらと思ってパンフとネットで調べてみましたら、身体表現ユニットDEREVOのフロントマンであり、演出家、俳優、振付師、ダンサー、また2001年には映画の監督・脚本も手がけてらっしゃるとのこと。
いろいろやる御人のようです。悪役が似合いそうな風貌といい、幅広いご活躍といい、ちょっとスティーヴン・バーコフっぽいですね。カフカ関連の舞台をひっさげて来日していただけないものか。

悪魔じゃないときはこんなふう。

Anton Adasinsky for Rolling Stone - a photo on Flickriver

ううむ、かっこいい。
サングラスかけるとミシェル・フーコーにしか見えませんけれども。

閑話休題。

このヘンな悪魔をせいぜい利用するつもりだったファウストは、いつの間にやらのっぴきならぬ事態へと引きずり込まれ、ついには血の契約を交わすはめになり、最後は荒涼とした岩山(死の世界?)へと放り出されるのでございました。
ラストシーンでのファウストはやけに明るくポジティヴで、いずこからともなく響いて来る「どこへ行くの?」というマルガレーテの問いかけに「あちらへ、はるか先へ」とほがらかに答えて歩み去ります。自分が魂を売り渡してしまったことも、この世かあの世かも定かではない場所へと踏み込んでしまったらしいことも、まるっきり忘れたように。

解釈が観客に開かれた作品の常として、このラストは単純に言って明暗二通りの見方ができるようでございます。
意味も理屈も倫理も突き抜けた所で高らかに宣言される「生きること=欲望すること」の肯定、という明るい結末と見ることもできましょう。
一方、汲めども汲めども決して満たされることのない、「生きること=欲望に駆られること」の不毛さを暗示する、暗い結末とも読めます。
ワタクシは後者の方と見ますけれど。

だってね。
このファウストはマウリツィウスに向かって「お前が何をくれた?金もくれなかっただろ。権力も影響力も自力でつかみ取るよ」と宣言します。けれども、そもそもファウストは魂のありかや生きる意味を探していたはずではございませんか。
金、権力、影響力、自然をねじ伏せる知と技。それらを自力でつかみ取ったとして、その先は?それらは荒涼とした世界に放り出されたファウストを、いったいどこへ導くというのでしょうか?

ゲーテのファウストは放浪のはてに行き着いた海辺の地で、勤勉に働く人間の営みに感動して(誤解であったにせよ)、「時よ止まれ、お前は美しい」と充足の声をあげるやいなや絶命します。一方ソクーロフのファウストが行き着いたのは、止まれも何も、時のうつろいを示すものさえ見い出せない荒涼とした世界でございます。あるのはごうごうとエンドレスに流れる川と、吹き上げては静まり、また吹き上げては静まりをひたすら繰り返す間欠泉、そして草一本生えていない岩山だけ。
止められるべき美しい時間も存在しない世界において、このファウストが充足を得る瞬間など来るのでしょうか?
よしんばそこに永劫の時間があるとしても、マルガレーテの問いかけはその永劫に渡って、ファウストにつきまとうことでございましょう。

「どこへ行くの?どこへ?」




そんなわけで
いろいろと斬新なファウスト像ではあり、深読みする愉しみもございますけれども、この映像美で普通に映画化した『ファウスト』を観たかったぜ、とも思ったことではありました。