のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

水晶忌

2007-01-28 | 忌日
本日は
19世紀オーストリアの画家にして作家、
アーダルベルト・シュティフター の命日でございます。(1868年 62歳)

肝臓癌のもたらす激しい苦痛に耐えかね、剃刀で自らの喉をかき切ったのでございます。

岩波文庫から出版されているシュティフターの短編集『 水晶』 は、 1852年に出版された『石さまざま』から
『水晶』『みかげ石』『石灰石』『石乳』の4作品および『石さまざま』の序を収録したものでございます。

どの作品も、たいそう地味な装いをしております。

華麗な修辞が駆使されることもなく
絶望や愛が声高に語られることもなく
登場人物が、生きる意味について長広舌を振るうこともありません。

描かれているのは、歴史の表舞台には決して表れることのないような
ごくささやかな生を送る人々です。
しかし読み進めるうちに、こうした地味な、何でもないような外貌の下にある
結晶のように碓とした輝きが読む者の心に滲みてくるんでございます。

シュティフターが小説において描いた人々は
ミレーコンスタンブルが絵画において描いた人々のようです。

「農民」という意味ではございません。

ミレーの作品に描かれているような文化的風土を、現代の私たちは持ち合わせておりませんね。
私たちは「落ち穂拾い」をいたしませんし、晩鐘に作業の手を止めて感謝のお祈りを捧げたりもいたしません。
にもかかわらず、ミレーの作品を見て感動を覚えます。
「落ち穂拾い」が何を意味するのか知らない子供でさえ、ミレーの『落ち穂拾い』に心を動かされます。

その感動は、単に異国の牧歌的な風景に対して抱く憧れのみに帰せられるものではなく
そこに描かれている、無名の人間の、全く特別ではない生に対して
画家がよせる深く、強い肯定を感じればこそでございます。

そして無名の人の、特別ではない生を
愛情と確信をもって描き出したという点において、シュティフターの小説もまた
普遍的な輝きを放っているのでございます。


ところで
『石さまざま』の序文に、シュティフターはこんな一文をよせております。

ある人の全生涯が、公正、質素、克己、分別、おのが職分における活動、美への嘆称にみちており、明るい落ちついた生き死にと結びついているとき、わたしはそれを偉大だと思う。心情の激動、すさまじい怒り、復讐欲、行動をもとめ、くつがえし、変革し、破壊し、熱狂のあまり時としておのが生命を投げだす火のような精神を、わたしはより偉大だとは思わない。 『水晶』 1993年 岩波文庫 p.282

シュティフターが「偉大だとは思わない」と明言した
人間の激情や熱狂や破壊性といった側面を、ことさら深く探求した小説家が
奇しくもやはり1月28日に亡くなっております。(1881年 59歳)

こちらの方の作品においては
登場人物が自らの世界観について、数ページに渡る長広舌を振るいまくったり
「世界をひっくりかえすほどの」美貌の持ち主が、燃え盛る暖炉に10万ルーブリの札束を投げ込んだり
善良な青年が「神がいないなら、僕自身が神だ」ということを証明するためにピストル自殺したり
1人の女性を父親と取り合った息子が、父殺しの容疑で裁判にかけられたり
その他の人々も、両手をぱちんと打ち鳴らしたり眼をぎらぎらさせたり赤くなったり青くなったり
そりゃもうえらいこってございます。

そう、
本日はドスとさんの命日でもあるのでございました。
ロシア暦では2月9日でございますが。

淡々とした美しい風景描写の中に、点景のように無名の人物を配し
素朴な生への讃歌をささげるシュティフター。
舞台で上演される演劇のように、個性的な人物の熱い語りに読者を引き込み
人間の負の側面を根底まで掘り下げるドストエフスキー。
表現における方向性はほとんど180度違うお二人でございますが
敬虔へのあこがれや、子供への愛着、
あとニーチェが賞賛を捧げている なんていう点において、妙に共通しているのでございました。