結局の所
死ぬまでの間しか生きないのででございますし
あまり長いこと生きるつもりでもございませんから
好きなこと喋らせていただこうと思います。
というわけで、ノミ話でございます。
短い人生の間に喋りたいのはこんなことなのかって。こんなことなんです。
Lass mich in Ruhe.
いえ ね。
先日、書店でノミっぽいものを見つけたんでございます。ほらっ。

このタイポグラフィはまさしく、

映画『ノミ・ソング』のそれと同じものではございませんか。
ちなみに、映画のパンフでは、ご丁寧に奥付け部分でもこの文字デザインを使っております。

『トランスジェンダー・フェミニズム』という本です。
「トランスジェンダー」という言葉は、広義には、生得の性別に違和感を持っている人、の云いです。
本書では「性別超越者」という訳語を使っています。
今回はジェンダーのお話には立ち入りませんが、本書の概要を申し上げておきます。
自身トランスジェンダーである田中玲氏が、フェミニズム、ジェンダー、トランスジェンダー、および
こうした枠組みでもって人を分類したがる社会について、体験に即して率直に論じておられます。
「何故世の中には、性別というメンドークサイ枠組みがあるのだろうか?」と常々思っているのろには、大変興味深い内容でございました。
「性別超越」といえば1981年当時、フランスの「リベラシオン」紙が、ノミについてまさしくこう書いておりますよ。
Asexual creature, sad clown with the body of an extra terrestrial, the love child of Callas and Elvis Presley
「性別の無い生き物、地球外生命体の身体を持った悲しき道化師、マリア・カラスとエルヴィス・プレスリーの私生児」
こう言われて嬉しかっただろうと思うのですよ、ノミ。
ノミも周りの友人/スタッフたちも、まさしくこういうものを作りたかったのだろうと、思うのです。
「作る」と申しましたのは、ノミが自身を「作品」として扱おうとしていたからです。
It sounds affected but I do see myself as a piece of living art.
「気取った言い方かもしれないけど、僕は自分のことをひとつの”生きるアート”だと見なしている」
(英語版ノミソング公式HP ノミ自身のコメントより)
映画の中でも、こんな証言がございます。
Klaus Sperber was left behind really quick...I mean,he became very artificial personality.And I think he needed to do that.
「(クラウス・ノミとしてデヴューした後、)ほんのわずかの間に、クラウス・スパーバー(ノミの本名)は姿を消してしまった。彼はものすごくわざとらしい、作り物めいたパーソナリティをまとったの。きっと、そうすることが必要だったんだと思う」(友人 ガブリエル・ラ・ファーリ)
This was the wild NW experience that was going to be tightly controlled.There was definitely a sense that I was up against the surface...a very interesting surface...very well designed surface,but the surface that I wasn't going to go into it.
「(ノミを撮影するのは)厳密にコントロールされている感じで、とんでもなくニューウェーヴ的な体験だった。何かの”表面”にぶつかったぞ、というような、確かな手応えがあった。その”表面”は、とても興味深くて、みごとにデザインされている・・でも、僕はその中へ入って行くことができない、そういう”表面”」
(アンソニー・シベッリ 写真家)
He was so done...and so put together.....He realized that a wonderful act he had.And put a sought of rather...flippant and superficial side to something actually felt really deeply.
「彼はすごく”作られ”ていた。・・・・彼は自分のパフォーマンスが素晴らしいものだと自認していた。そのままで出せばとても深い感動を与えるものに、わざと、軽薄でふざけた側面を持たせていたんだ」
(アラン・プラット 記者)
もしかしてこんなことも著作権侵害になるのかしらんとビクビクしながらも もう一丁。
When he became Nomi, he shed Klaus Sperber.....I had been given a stage name at some point in my career and whenever I went outside, I guess I became that person, but behind closed doors I was still Gabriele. But Klaus never became Klaus Sperber again.
「”ノミ”になって、彼は”スパーバー”を脱ぎ捨ててしまった。・・・・私も、芸名を名乗るようになってからは、外ではその顔でふるまったけれど、家に帰ればやっぱり、もとのガブリエルだった。でもクラウスは、二度と”スパーバー”には戻らなかったの」
(ガブリエル・ラ・ファーリ 英語版ノミソング公式HPより)
自分を「作品」として扱う。しかも、常に。誰の前でも。
これ即ち、自分はどういう存在であるべきかを常に意識していなければならない、ということでございます。
甚だ緩慢に生きがちののろは、この点だけ見ても(関西弁/関東弁 両方の意味で)ああ、エライなあ、と思うのでございますよ。
更にエライなあと思いますのは、そうして作り出した「作品 KLAUS NOMI」が、あんなにも
思い切ってバカバカしく、チープで、うそくさくて、わざとらしい、まあひと言で申せばナンジャコリャな像であったということです。
(あの、ほめてるんですよ)
オペラにせよ、ロックにせよ、またその他のあらゆる表現について言えることでございましょうが、
すでに「よいもの」として認められている表現形式に、忠実にあるいは上手に乗っかったならば、それなりの成功は
-----あるいは、少なくとも、それなりの容認と理解は-----享受できるのです。
しかし、そうした表現形式からはみ出して、しかも相当にバカバカしい表層を持った表現を
あ え て す る、というのは、大変なことだと思うのですよ。
とにかく新しいものを求める、という時代の後押しがあったにしても。
(実際、ブーイングの嵐に見舞われたコンサートもあったのですし・・)
感動的に バカバカしくて美しい、ノミのパフォーマンス。(エエ、何とでもおっしゃい)
あんなにも突飛でチープな表層を打ち出しながらもなお美しいのは、テナーからソプラノまでカバーする歌唱の力は言わずもがな、
「あえて、それを、する。しかも、大真面目に」という心意気が、そこに存在するからでございます。
突飛でバカバカしい表層を持つものは、まずはその突飛さゆえに衆目を引きつけることができますが
まさにそれゆえに、「それだけのもの」と見なされてしまうリスクがございます。
とにかく一発大当たりすればそれでよし、というような、本当にただ上っ面だけのもの、も存在するわけでございまして
その活動期間の短さゆえに(死んじまいましたからね)、ノミもこうした「一発屋」の同類と見なされる向きがあるようですが
「変な人が変なことやって一瞬ウケた」というレベルでは、決してないと思うのでございますよ、ヤツの場合。
ちと マジメにノミ語りしてみました。
実はマジメに考えてるんでございます。
ヤツもマジメにやっていたことですし。
のろがマジメしたってせいぜいこの程度のことしか語れないのでございますが
生きている間に好きなこと喋っとこうと思って
長々つぶやいてみた次第でございます。
死ぬまでの間しか生きないのででございますし
あまり長いこと生きるつもりでもございませんから
好きなこと喋らせていただこうと思います。
というわけで、ノミ話でございます。
短い人生の間に喋りたいのはこんなことなのかって。こんなことなんです。
Lass mich in Ruhe.
いえ ね。
先日、書店でノミっぽいものを見つけたんでございます。ほらっ。

このタイポグラフィはまさしく、

映画『ノミ・ソング』のそれと同じものではございませんか。
ちなみに、映画のパンフでは、ご丁寧に奥付け部分でもこの文字デザインを使っております。

『トランスジェンダー・フェミニズム』という本です。
「トランスジェンダー」という言葉は、広義には、生得の性別に違和感を持っている人、の云いです。
本書では「性別超越者」という訳語を使っています。
今回はジェンダーのお話には立ち入りませんが、本書の概要を申し上げておきます。
自身トランスジェンダーである田中玲氏が、フェミニズム、ジェンダー、トランスジェンダー、および
こうした枠組みでもって人を分類したがる社会について、体験に即して率直に論じておられます。
「何故世の中には、性別というメンドークサイ枠組みがあるのだろうか?」と常々思っているのろには、大変興味深い内容でございました。
「性別超越」といえば1981年当時、フランスの「リベラシオン」紙が、ノミについてまさしくこう書いておりますよ。
Asexual creature, sad clown with the body of an extra terrestrial, the love child of Callas and Elvis Presley
「性別の無い生き物、地球外生命体の身体を持った悲しき道化師、マリア・カラスとエルヴィス・プレスリーの私生児」
こう言われて嬉しかっただろうと思うのですよ、ノミ。
ノミも周りの友人/スタッフたちも、まさしくこういうものを作りたかったのだろうと、思うのです。
「作る」と申しましたのは、ノミが自身を「作品」として扱おうとしていたからです。
It sounds affected but I do see myself as a piece of living art.
「気取った言い方かもしれないけど、僕は自分のことをひとつの”生きるアート”だと見なしている」
(英語版ノミソング公式HP ノミ自身のコメントより)
映画の中でも、こんな証言がございます。
Klaus Sperber was left behind really quick...I mean,he became very artificial personality.And I think he needed to do that.
「(クラウス・ノミとしてデヴューした後、)ほんのわずかの間に、クラウス・スパーバー(ノミの本名)は姿を消してしまった。彼はものすごくわざとらしい、作り物めいたパーソナリティをまとったの。きっと、そうすることが必要だったんだと思う」(友人 ガブリエル・ラ・ファーリ)
This was the wild NW experience that was going to be tightly controlled.There was definitely a sense that I was up against the surface...a very interesting surface...very well designed surface,but the surface that I wasn't going to go into it.
「(ノミを撮影するのは)厳密にコントロールされている感じで、とんでもなくニューウェーヴ的な体験だった。何かの”表面”にぶつかったぞ、というような、確かな手応えがあった。その”表面”は、とても興味深くて、みごとにデザインされている・・でも、僕はその中へ入って行くことができない、そういう”表面”」
(アンソニー・シベッリ 写真家)
He was so done...and so put together.....He realized that a wonderful act he had.And put a sought of rather...flippant and superficial side to something actually felt really deeply.
「彼はすごく”作られ”ていた。・・・・彼は自分のパフォーマンスが素晴らしいものだと自認していた。そのままで出せばとても深い感動を与えるものに、わざと、軽薄でふざけた側面を持たせていたんだ」
(アラン・プラット 記者)
もしかしてこんなことも著作権侵害になるのかしらんとビクビクしながらも もう一丁。
When he became Nomi, he shed Klaus Sperber.....I had been given a stage name at some point in my career and whenever I went outside, I guess I became that person, but behind closed doors I was still Gabriele. But Klaus never became Klaus Sperber again.
「”ノミ”になって、彼は”スパーバー”を脱ぎ捨ててしまった。・・・・私も、芸名を名乗るようになってからは、外ではその顔でふるまったけれど、家に帰ればやっぱり、もとのガブリエルだった。でもクラウスは、二度と”スパーバー”には戻らなかったの」
(ガブリエル・ラ・ファーリ 英語版ノミソング公式HPより)
自分を「作品」として扱う。しかも、常に。誰の前でも。
これ即ち、自分はどういう存在であるべきかを常に意識していなければならない、ということでございます。
甚だ緩慢に生きがちののろは、この点だけ見ても(関西弁/関東弁 両方の意味で)ああ、エライなあ、と思うのでございますよ。
更にエライなあと思いますのは、そうして作り出した「作品 KLAUS NOMI」が、あんなにも
思い切ってバカバカしく、チープで、うそくさくて、わざとらしい、まあひと言で申せばナンジャコリャな像であったということです。
(あの、ほめてるんですよ)
オペラにせよ、ロックにせよ、またその他のあらゆる表現について言えることでございましょうが、
すでに「よいもの」として認められている表現形式に、忠実にあるいは上手に乗っかったならば、それなりの成功は
-----あるいは、少なくとも、それなりの容認と理解は-----享受できるのです。
しかし、そうした表現形式からはみ出して、しかも相当にバカバカしい表層を持った表現を
あ え て す る、というのは、大変なことだと思うのですよ。
とにかく新しいものを求める、という時代の後押しがあったにしても。
(実際、ブーイングの嵐に見舞われたコンサートもあったのですし・・)
感動的に バカバカしくて美しい、ノミのパフォーマンス。(エエ、何とでもおっしゃい)
あんなにも突飛でチープな表層を打ち出しながらもなお美しいのは、テナーからソプラノまでカバーする歌唱の力は言わずもがな、
「あえて、それを、する。しかも、大真面目に」という心意気が、そこに存在するからでございます。
突飛でバカバカしい表層を持つものは、まずはその突飛さゆえに衆目を引きつけることができますが
まさにそれゆえに、「それだけのもの」と見なされてしまうリスクがございます。
とにかく一発大当たりすればそれでよし、というような、本当にただ上っ面だけのもの、も存在するわけでございまして
その活動期間の短さゆえに(死んじまいましたからね)、ノミもこうした「一発屋」の同類と見なされる向きがあるようですが
「変な人が変なことやって一瞬ウケた」というレベルでは、決してないと思うのでございますよ、ヤツの場合。
ちと マジメにノミ語りしてみました。
実はマジメに考えてるんでございます。
ヤツもマジメにやっていたことですし。
のろがマジメしたってせいぜいこの程度のことしか語れないのでございますが
生きている間に好きなこと喋っとこうと思って
長々つぶやいてみた次第でございます。