昨日 施設に「退院直後」の母親を弟・妹と見舞いに。
もう一か月で99歳の誕生日を迎える母親。
大正生まれで、昭和・平成・令和を生き抜いてきました。
入退院を繰り返しながらも、認知を発症していません。
退院後の昨日も、妹の名前を呼び、「お早う」「ありがとう」を連発。
笑顔の母親の顔が見え、声が聞けた弟妹も「ほっと」一安心です。
立ち会ってくれた介護の人たちも、私たち家族も「ハッピー」な気分に。
交通事故で亡くなった父親、当時母親は56歳で寡婦に。
以来30年間独り暮らし、10年前にUターンした私たち夫婦と同居。
若いころ国鉄に勤務し、電話交換や駅長の「お世話係」だったとか。
「着物」が好きで、その費用を稼ぐために、働きだしたらしい。
当時、国鉄の「無料パス」で全国の着物の名産地を訪ねたとか。
およそ80年前、20歳前後の写真に「お転婆」だった母親の姿が。
友人との草履履きでのピクニックや着物姿での潮干狩りなどの貴重な写真も。
「社交的」で「頑固で」「人情家」の母親。
そのDNAは、私と私の娘たちにも引き継がれている気がします。
若いころ、樺太(現在のサハリン)に渡ったこともあるらしい。
高齢になっても、ローマ字のサインを覚え、友人たちとハワイに遊んだことも。
旅慣れた母親は、転勤族の私の赴任地のほとんどを訪問してくれました。
「岡山弁」を駆使して尋ねながら、独りで飛行機や新幹線で東京も博多も・・。
すし詰めの小田急線も全く苦にならなかったのだとか。
脳内出血は少量だったが、半身の運動機能エリアと発語領域を侵したらしい。
しかし 数か月のリハビリで話せるようになり、マヒはのこったもののプチ回復。
嚥下力も低下したため、医師と相談し、口と「遺漏」両方で栄養摂取を決断。
入院時も治療はもちろん、毎回 早めの栄養開始を医師に依頼。体力回復が目的です。
何度も「奇跡の生還」を果たしてきた母親。元々の免疫力も高いらしい。
知人の老健施設を運営する医師に聞きました。
「女性の100歳超えは多いが、男性はそうはいかないね。86歳かな」
データがあるのか、86歳と言い切りました。
私の「残り」の人生も、あと十数年の勘定。
「日残りて、昏るるに未だ遠し」でなく、「昏るるは近し」かも。
やるべきことを、早くに仕上げなくてはと急かされる想いです。
画像 職場の母親 国鉄勤務 電話交換手
80年前の母親 右側
潮干狩りの母親 着物姿 左側
県南 鷲羽山近辺?
山歩きの母親 当時としてはおしゃれ? 左端
近隣の大佐山? 足元は草履です
※ いずれも貴重な母親の青春時代 よく残っていたものです
施設入所中の母親とは、ガラス越しの面会。
元気な顔を見て、ハンディトーキーでの会話です。
簡単な会話しかできません。
ただ 母親の元気な顔を見ること、母親に私たち兄妹3人の顔を見せる
くらいの見舞いです。
でも私のように高齢で、母親が居ることの幸せは感じています。
体調の急変も覚悟しています。
昨年、伯母が99で亡くなりましたが、最後の2年感は認知で会いに行っても『どちらさまでしょう?』と話が出来んかったのは情けなかった。ほいじゃけぇ話が出来る時にしといたげて下さい。鬼クロンの邪魔が入るけぇいけませんねー? 桃太郎にゆーて鬼退治してもろーて下さいませ。
ウチの母親は12年前に83で亡くなりましたが、最後まで認知はなかったけど、最後は言葉は少なかったです。決して『苦しい』とか『しんどい』とかワシらが心配になるような事は言わんかったです。