読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『江戸の天文学者星空を翔ける』

2009年03月05日 | 自然科学系
中村士『江戸の天文学者星空を翔ける』(技術評論社、2008年)

有名なところでは伊能忠敬、そして彼の師匠でもある高橋至時など、江戸時代に天文学に関わった人々がどんな資料を使い、どんな道具を使っていたのかを、解説した読み物。

江戸時代に天文学と言えば、暦を管理する部署に携わった天文方と、もともとそれ以前から暦に関わっていた京都の陰陽師たちの二つの派閥みたいなものがあったらしい。もちろん陰陽師たちのなかでは平安時代の安倍清明が有名だが、どっちにしても江戸時代にはその思想の斬新さも失われ、まったく意味不明の非科学的な論拠でもって暦を作っていたので、日食や月食の予想が外れることが頻繁にあったことから、天文方に改暦の作業を委ねることになったらしい。

江戸時代の暦のもとになっている太陽太陰暦は月の満ち欠けを基本とするのだが、これは29.5日の周期を持っている。しかし現実には地球そのものが太陽の周りを楕円に周回しているし、太陽の引力との関係で、この周期も0.5日くらい長くなったり短くなったりするらしい。さらにこれを12倍しても364日で実際の1年には2日足りなくなる。つまり単純に月の周期だけで暦を作ると地球の公転周期とずれてくることになる。そのために中国でも王朝が変わるたびに改暦があり、日本もそれをもとに何度も改暦をすることになるが、そもそもきちんとした天体観測によるデータにもとづた改暦ではないので、そうとうに杜撰なものだったらしい。

農業はいつ種を植えていつ収穫すればいいのかことが暦と大いに関わりがあるし、昔は日食や月食が天候異変や政変の原因とか徴のように思われていたので、それらを正確に予想することは重要なことであったのだろう。幕府要人の中ではとくに8代将軍吉宗が天文だけでなく科学一般にたいする関心も知識もぬきんでており、自分で望遠鏡をのぞいたり、天文観測のようなことをしたりしていたらしいから相当のものであったようだ。彼はそれまでの西洋文献の輸入禁止を解禁したり翻訳を奨励したりもした。しかし入ってくる文献を読もうにも辞書もないし、教えてくれるものは誰もいないわけで、長崎出島の通詞がそうした作業をするようになるにも時間がかかった。それで天文学が実用として利用されるようになるのには高橋至時や伊能忠敬たちが活躍する19世紀はじめまで待たなければならなかったというわけだ。

天文学が発達するもう一つの条件に遠洋航海で位置を知るための装置などの開発がある。ところが江戸時代は鎖国をしていたので、日本沿岸での回船と呼ばれる船だけで、遠洋航海はしなかった。だから西洋で遠洋航海に使われた装置であるオクタントとかセキスタントなどの緯度経度をはかる装置は西洋から入ってきていたが、ほとんど使われることはなかったらしい。

からくりなどは江戸時代には高度に発達したし、和算だって関孝和が有名だが、天体観測からさらに天文学への関心というのは日本人はほとんどなかったみたい。それは儒教の国中国でもそうだからきっと儒教というイデオロギーがこれらの方面への関心を抑えるようなものだったのかもしれない。

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