読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『赤鬼』

2009年03月14日 | 舞台芸術
劇団大阪『赤鬼』(野田秀樹作)

私の知り合いの神津晴郎さんが野田秀樹の芝居を演出する、しかも神津さんの初演出の芝居ということで谷町劇場に観にいった。

そこでもらったパンフレットによると、若手の劇団員たちが本を選び、さらに足りない出演者をオーディションして集めて始めたとのこと。老齢化した劇団に新風を送りこみたいという神津さんの意気込みが伝わってくる、というわけでもなさそうで、演出は最初から神津さんがやるということでこの話を持ち込んだわけではなく、さまざまな紆余曲折があって、最終的に神津さんになったということのようだ。

『赤鬼』という作品は、ある漁村に赤鬼とみまがうほどの赤毛、赤ひげ、赤い服をきた異国人が流れつき、同じくよそ者であったために「あの女」としか呼ばれていなかった福という若い娘が彼が「うばった」村の赤ん坊を取り戻させたことから、じょじょに赤鬼との交流がうまれ、お互いの言葉も理解できるようになるが、いくつも流れついたガラス瓶のなかに入っていた手紙に赤鬼が鐘を鳴らしたら沖で待っている船から上陸するということが書いてあるのを知り、てっきり村が異国人たちに襲撃されるとパニックになった村人たちに赤鬼と福は監禁されるが、福の兄と友だちの水銀(みずかね)によって救出され、沖で待つはずの異国船に逃げようとするが、すでに船はおらず、食料も尽きて死んでしまった赤鬼を三人が食べて助かるも、福は自分が赤鬼を食べて生き延びたことに堪えられず、自殺してしまうというお話である。

言葉遊びふんだんの舞台の展開は、野田秀樹に特有のスピーディさであっというまに進んでいく。福の兄で「とろい」とんびが狂言回しをしている。自分と異質なものを理解しようとしないで排除しようとする人間の防衛本能を滑稽に笑い飛ばしただけでなく、最後にはそれを批判していた福に人肉を食べさせることで、口先だけの批判を批判している。結局、生き残ったのは嘘を身上とする水銀かと思いきや、福が自殺したことで、彼の心も空っぽにさせてしまうのだから、この世に唯一絶対のものはないということを、面白おかしく主張しようというものに見えるが、どうなんだろうか。

これまで劇団大阪の芝居ばかり見てきた私には野田秀樹の芝居は「軽い」。最初は、その軽さがなんか堪えられない感じがしていたが、話が進むと、否定の否定で、そう単純なものでもない、「軽さ」を通してなにやら深遠なものを主張しようとしているのかなということが感じられるようになってきたが、結局、つかみどころがなかった。上にも書いたように、この世に唯一絶対のものはないということを主張としようとしていたのなら、つかみどころがなくて当たり前かもしれない。

唯一の救いは、出演者がみんな楽しそうに芝居をしていたことだ。さすがに若い人たちは滑舌もなめらかで、すごいスピードでセリフを言っているので、私より年のいった人たちはついていくのが大変だったのではないだろうか。若者向けの芝居だね。

でもこれだけのものに、よくまとめましたね、神津さん。

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