読書な日々

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「禁煙ファシズム」(?)

2009年03月11日 | 日々の雑感
「禁煙ファシズム」(?)

今朝の新聞を読んでいたら「中央公論」4月号の広告の中に小谷野敦が書いた「さらば東京大学わが反「禁煙ファシズム」闘争記」という記事の見出しが目に付いた。読んでいないけど、彼の言いたいことはおよそ見当がつく。(写真は「大山王国」から借りました)

数年前に健康増進法とかいうような名称の法律ができた。私のように40歳を越えた国民健康保険所有者には特定健康診査なる一種の簡易人間ドックが500円で受診できるようになったり、国民の健康を増進するという名目のもとに公共空間のほとんどが禁煙になってきた。

たぶん小谷野はヘビースモーカーらしいから、このようにあっちでもこっちでも禁煙だといわれるのを、しかも「あなたの健康のためですよ」と善意を押し付けられるのを「禁煙ファシズム」だと言っているのだろうとおよその察しがつく。たぶん彼が講師をしている東京大学の講師控室でも禁煙になったりして煙草を吸う場所がなくなっていく状況に腹を立てて講師を辞めると言い出したのだろうと思う。きっと彼のことだから、こうした猫も杓子も禁煙・禁煙と右にならえする状況を、戦前のファシズムへの流れになぞらえてあれこれ書いているに違いない。

多くの公共空間がほぼ全面的に禁煙になっていくのは、一昔までの光景を考えたら、たしかにちょっと異常な感じもするけれども、これまで好き勝手にどこでも煙草を吸うことができたということのほうが異常なのだ。たとえば最近NHKテレビでやっている白洲次郎の半生を描いたドラマを見るがいい。特別彼らが煙草好きだったというわけでもなかろうが、官房らしき場所であれ、会議室のような場所であれ、煙がもうもうとして向こうが見えないくらいである。そんななかで煙草を吸わない人間はどんな気持ちでいたのだろうかということに配慮が向かないというほうが異常であろう。

最近ではおおっぴらに煙草が吸えるのはたぶん自宅と飲み屋・カフェくらいのものだろう。さすがに私も飲み屋に行くときには周りで煙草を吸っている奴がいても仕方がないと諦めているが、カフェで煙草を吸っているのがいると、すぐに席をたつ、というかカフェなんかには入らない。

私の知り合いに、煙草を嗜好品の一種だから個人の勝手だといった奴がいるが、それはちょっと違う思う。なんであれ人に迷惑をかけない範囲において、だれでも自分の好きなことをすることができる。煙草がその部類に入らないのは煙草を吸うことで人に迷惑をかけるからだ。煙が周囲の人間にどれだけ迷惑をかけているのかということが、どうもこの人たちは分っていないらしい。

必要があって煙草を吸うあなたと煙草が嫌いな私が同席せざるをえなかったとしよう。同席することで私はあなたには何の迷惑もかけていないのに、煙草を吸うことであなたは私に多大な迷惑をかけている。だから人前で煙草を吸いたければ、煙草の煙が周囲に広がらないようにビニール袋でもかぶって煙草を吸えと私が言ったら、その知り合いは激怒したが、私にはその激怒そのものが理解できない。他人に迷惑をかけておいて「私の好きなことをして何が悪い」式に切れるのは馬鹿としか言いようがない。

ついでに書いておくと、煙草が現在いくらするのか知らないが、300円くらいとして、これを1000円とかにしようとする動きがあるらしい。税収も増えるし、煙草を吸う人も少なくなるだろうという当てがあってのことだ。これについては私はちょっとどうかなと思う。上記のように、煙草を他人の迷惑も考えずに吸う輩は論外だが、どこにも礼儀をわきまえた人というのはいるもので、人に迷惑をかけずに煙草を吸っている人もいる。そういう人のことも考えず、税収を増やすためにという理由で現行の2倍も3倍にも値上げするというのは酷い話だからだ。煙草を吸うという楽しみまで奪ってはいけないと思う。

ファシズム関連の記事を探していたらWikipediaに禁煙ファシズムという見出しがあることが分った。小谷野はこの主張をしているもっとも先鋭的な人物だという説明があった。なるほどね。こちら

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