読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

ねじまき鳥クロニクル

2007年08月01日 | 作家マ行
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社、1994年)

「羊をめぐる冒険」あたりから村上春樹の小説は訳が分からなくなりつつあったが、この小説はその行き着くところまでいった感がある。第1部の泥棒かささぎ編はまだいいとして、第2部の予言する鳥編になると、書いている本人にも自分がどこに行きつくつもりなのか、どういう落ちにするつもりなのか分かっているのだろうかと首を傾げざるをえない。やれやれ、加納クレタがクミコだったとはね。

出だしはすごく調子よかった。村上春樹一流の日常生活をこまごまと描写する手法で始まってあっというまに読者を引きずりこんでくれる。まぁ笠原メイくらいはまだまともな登場人物で中学生がビール飲むかよとおもうけど、まぁ世の中にはそれくらいの子もいるだろうし、とか思いながら読んでいた。

クミコの生い立ちとか彼女の兄の綿谷ノボルの話なんかも、けっ、こいつうちの上さんの兄によう似てるなと思いつつ、ほんとこいつみたいに人を人とも思っていないような人間ているよな、とくに自分が他人よりも優位に立てないと分かっていると余計に人を無視したような態度を取るやからがね、と思いつつ読んだ。いやなことを思い出させてくれたけど、それはそれ、小説だからと割り切ることも出来た。

そして本田さんとか間宮中尉の登場で、ちょっと様子が変わったけれども、というのはなぜこんなところにノモンハンでの戦中の忌まわしい話が出てこなければならないのかよく分からないので、まぁ話そのものには史実にのっとった話のようで、たしかに忌まわしい話ではあるけれども、読ませる話なので、納得しつつ読んだ。

だが、第2部に入ると様相が変わってくる。加納マルタや加納クレタはすでに第1部から登場しているけれども、その風変わりさはきっとどこかでいつかは解明されるはずだという期待があった。だが第2部を読み進むうちにまったくそれは解明されないどころか、クミコの失踪の意味もクレタが語る綿谷ノボルに汚された話の象徴的な意味も、そして主人公の顔に出来たあざの意味も、なにもかもが意味不明のまま終わってしまう。なんじゃこりゃーと叫びだしたくなるのを抑えつつ、本を閉じたのであった。

村上春樹って、本当に文体の魅力だけで読ませているけど、本当はいったいなんなの?これでノーベル賞なんかもらっちゃっていいのでしょうか?(まだもらうと決まったわけではないけど)

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