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『火の女シャトレ侯爵夫人』

2009年03月31日 | 評論
辻由美『火の女シャトレ侯爵夫人』(新評論、2004年)

副題に「18世紀フランス、希代の科学者の生涯」とあるように、エミリー・デュ・シャトレの生涯をおもに彼女の生涯の愛人であり、科学研究のライバルでもあったヴォルテールとの関わりを中心にして描いた伝記である。

シャトレ夫人の年表を簡単に。
1706年 ブルトゥイユ家に長女として生まれる。父はルイ14世の大使を務める高官。
ラテン語、ギリシャ語、イタリア語、ドイツ語などに堪能。とくにラテン語の能力は非常に高く、ラテン語の古典作品をまるで目の前にあるフランス語訳を読んでいるかのように、瞬時に素晴らしく翻訳することができたという。また数学にたいする興味も強く、集中すると食事もなにも忘れて、没頭するという性格だった。

1725年 シャトレ侯爵と結婚。侯爵は軍人でほとんど戦場に出かけていることが多かった。また夫人の勉強好きを自分にはない特質として認め、ほとんど干渉しなかった。口下手で社交嫌いでもあったので、かわりに頭の回転が速く、社交的であった夫人に宮廷や社交界での働きを委ねていた。夫人も夫の出世のために働いている。

結婚してから、リシュリュー公、数学者のモーペルチュイ、ヴォルテール、サン=ランベールたちと不倫関係になる。たいていはプレイボーイたちがたんなるなぐさみとして彼女に手を出したのだが、シャトレ夫人は恋に陥ると夢中になってしまう傾向があり、すぐに相手から避けられるようになるのだが、それが分らず、熱烈な手紙を大量に送りつける人だったらしい。ただしヴォルテールとはシレー城に一緒に住んで、研究をともにするなどのたんなる愛人関係だけではない関係を長期にわたって続けることになる。

私にとって興味深かったのは、第二章で描かれた18世紀前半における科学観や女性観の素描であった。

「国家とは私のことだ」と豪語したルイ14世は、首都パリから離れたヴェルサイユの宮殿に全廷臣を住まわせ、知的活動も芸術・文学的創造も娯楽も自分のまわりに集中させて、絢爛豪華な宮廷文化を現出させた。だが、それには、演劇や舞踏などパリの趣味を大幅にとりいれ、人材や資源の確保をパリに頼るしかなかった。そのことが逆に、ヴェルサイユの情報をことごとくパリに伝える結果を生む。(...)
 ヴェルサイユの遊興は、窮屈な高速の少ないパリへと広がっていき、それによって開放的で放縦なモラルが生まれ、女の時代を準備した。そして、ルイ14世時代が終焉したとき、女たちの眼前には、かつてなかったほどの自由と権力を手にする可能性がひろがっていた。
 おんなたちのその権力を行使する場をあたえたのは、前世紀に誕生したサロンであった。彼女たちは競って自分のサロンに高名な詩人や科学者や芸術家や政治家たちを集め、そこに女王として君臨する。」(p.45-46)

また17世紀後半から18世紀前半にかけて科学への熱狂が時代の雰囲気となった。1662年にはイギリスで王立協会設立、66年にはフランスで王立科学アカデミー設立などで科学が組織化され始めただけでなく、サロンが科学を一般向けに論じる場となり、それにあわせて、女性向けに科学的発見を論じるということが流行になる。フォントネルが1686年に出版した『世界の複数性についての対話』は哲学者が若くて美しい貴婦人に宇宙を語るという体裁をとっているのは、そうした時代の趨勢を反映してのことである。この本はヨーロッパ各国語に翻訳されて、18世紀前半の科学ブームを生み出す原動力ともなった。

シャトレ夫人もまだ少女の頃に父親のサロンに出入りしていたフォントネルの宇宙談議を楽しみにしていたほどに科学に対する関心が強かった。女性にして科学者というシャトレ夫人こうした時代の中で出るべくして現れた人だと、著者は説明している。

シャトレ夫人は1749年に亡くなるのだが、彼女の作り出した女性研究者という道筋は多くの女性に引き継がれ、そのなかの一人に女性論を執筆することになるデュパン夫人がいた。彼女は徴税請負人の妻で、今日で言うところのフェミニズムのさきがけといえるような女性論を書いている。女性は男性よりも劣っているのが女性の本性だという当時普遍的に信じられていた考え方に反旗を翻して、それはヨーロッパの近世が作り出した歴史的なイデオロギーであると考えて、それを証明するために古代史や法律や世界各地の風俗(今日で言うところの人類学的研究)などを調べ上げた。この研究に助手として働いたのが、無名時代のジャン=ジャック・ルソーであったというのも面白い。

公的な機関からは女性は排除されていたが、サロンなどを通して、女性も男性と同等にあらゆる問題を論じるだけの能力があることを示した18世紀の時代の動きは、当然のこととして女性はけっして男性に劣っていないというフェミニズムの主張を勃興させるだろう。それを思弁的な議論によってではなくて、地域と時代に制約されたイデオロギーとして見極めようとしたデュパン夫人の女性論は、これまた時代の趨勢の中で生まれるべくして現れた思想であるといえる。それをルソーが支え、自己の思想の中に取り込んでいったというのは、もっと指摘されてしかるべきことだと思う。

なかなか面白い本だったが、後半になるとシャトレ夫人の愛人問題ばかりに話題が集中していたのは残念。

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