読書な日々

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春の花

2009年04月07日 | 日々の雑感
春の花

曜日に上さんと近くの池に散歩がてら花見にでかけた。桜の種類にもよるのだろうが、大半がもう散り始めており、葉っぱも出始めていた。連翹や雪柳ももうおしまいになりつつある。前日に祭りが行われたので、この日は桜並木の周辺が、べつに汚れていたわけでも、ごみが散乱していたわけでもないのに、なんだか疲れたように見えたのは、たんなる錯覚だったのだろうか。桜と言ってもまだ若い木が多いので、もう一つ華やかさに欠ける。この桜並木は私が大きなお腹の上さんと初めて来た頃には、立派な桜の木ばかりで、池の土手もコンクリートで固めてなくて、土の道、周りには草花が咲いているというところで、じつに風情があった。

この池は、1000年以上も昔から灌漑用というか水田への水を供給するため池用として作られたものだが、排水の機能が落ちていたのだろう。すぐ泥水がたまってしまうということで、全面的に作り直された。そのときに桜は一度すべて切り倒された。残念なことだ。もちろん風情のあった桜並木ももうない。いまは外周が散歩コースになって、私のようにジョギングをしたり、ウォーキングをしたりする人がたくさんいるので、それはそれで利用価値のある公園になっているのだが。

周辺にはつねに草花を植えてあって、四季の花を見ることはできるし、土手には自然の草花も咲いている。日曜日にはそこでユスカリとローズマリーを見た。けっして花のせいではないのだけども、こういう外来種のにぎやかな草花はベランダなんかに植えて鑑賞するにはいいのだけども、自然の土手や道路わきなんかに植えてあっても、なんか本来の姿、つまり自然の一部として、景色の一部としての姿から逸脱しているようで、残念に思うのは私だけだろうか。

日本人は自然との調和が下手だと常々書いてきた。たとえばイギリスの田園風景はけっして滅びゆく風景ではなくて、人間が作り出した一つの理想的な風景だから、たぶんその維持には多大な出費と人手がかかっていると思う。日本人はそうしたものを嫌って、すぐにスクラップアンドビルドをしたがる。それで日本の風景の中で素晴らしいと思われるのは、けっして人手をかけたものではなくて、滅びゆく過程の一瞬であるに過ぎない。だからその一瞬を過ぎれば、その風景はもう「素晴らしい」とは感じられなくなるだろう。

よく素敵な庭園なんかが雑誌とかで紹介されているが、そうした庭園がなんの手間暇かけないでできるわけがないのだ。自然の風景もそれと同じことだということがどうして日本人には分らないのだろうか。
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