読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『日本小説技術史』

2013年01月15日 | 人文科学系
渡部直己『日本小説技術史』(新潮社、2012年)

私は大学の卒論でアルベール・カミュの『異邦人』を題材にした。最初は簡単な小説というか、読みやすい小説だから楽勝!と思って取り上げたのだが、いろいろ研究書などを読んでいるとけっこう厄介な小説だということが分かってきた。たとえば、当時非常によく取り上げられていた方法に小説技法の問題がある。語りの視点という面から小説をあれこれ分析してみる手法である。これを詳しく分析して分類したのはたしかジェラール・ジュネットだったと思うのだが、『異邦人』なんかは小説には非常に珍しい複合過去形が使われており、あたかも日記を書いているかのような文体になっていることから、当然語りの時点もその日記を書いた時点であり、それがどのように移動していくかというような観点から研究してみると、じつはそんな簡単なものではないことが分かる。また語りの視点ということからしても、当然日記であれば、語りの主であるムルソーが見聞きしたことしか語ることができないはずだが、そうではない内容も含まれていたりするという「矛盾」というか「ほころび」というような事態もあったりする。いずれにしても私が学生の頃は、それまで日本の文学研究には見たこともない(と私が勝手に思い込んでいただけのようだが)研究手法として小説技法の研究が盛んで、ロラン・バルトの物語の構造分析なんかもその一つだったように思う。

この本は、まさにそうした語りの視点だとか語りの小説技法の観点から明治(江戸も一部含めて)~昭和初期の日本文学の変遷を取り上げたもので、独特の語り口、650ページにも及ぶ大作であることもあり、自分が読んだことがある小説について書かれているところしか結局は分からないわけでもあるので、全部を読んだわけではない。私が読んだのは第二章の二葉亭四迷の『浮雲』と森鴎外の「ドイツ三部作」を扱ったところ、第三章の樋口一葉を扱ったところ、第五章の漱石のフォルマリズムを扱ったところなどである。

二葉亭四迷はどこかの本でいわゆる言文一致体がまだ確立する以前に小説を書きだしたことから、この文体の作り上げそのものに苦労したという話を読んだことがある。しかしこの本を読むと、彼が主人公の意識を神の視点によって登場人物に入り込んで書き記すというだけでなく、二階にある主人公文三の部屋からお勢のいる一階の居間への上がり下がりの往復運動としてとしても描き出していることだとか、それまでの江戸時代から坪内逍遥までの小説に頻出する立ち聞きの手法を二葉亭四迷が断固として否定して、それまでの小説からの決別をしているという解説など、ただ筋を追っているだけの読み方からは決して見えてこない興味深い点が見えてきて面白い。
『浮雲』はこのブログでも触れている。こちら

夏目漱石はたぶん明治の作家のなかで私が一番良く読んでいる作家なので、興味津々であった。とくにここで取り上げられている『明暗』は何度も読んでいるし、わりと最近も読んで、このブログで取り上げている。やはりここでも私が読んでいたように、引き伸ばし、遅延、宙ぶらり状態ということが指摘されている。私もこれを「じれったい」と書いているのだが、こうした感想はどうも当時から多くの人が指摘していたようだ。それをただの引き伸ばしと見て酷評した谷崎潤一郎のような大作家もいたようだ。
『明暗』についてのブログはこちら

しかし面白かったのは、『道草』の夫婦―これは唯一漱石の自伝的と言われる小説で、この夫婦も漱石夫婦として読まれることがほとんど―が、現実の漱石夫婦にもにて、互いに互いを求めつつも、相手をけなすばかりの関係に描かれていて、普通は、あまり夫婦仲がよくなかった漱石夫婦の実際を反映しているのだろうと思われている。しかしこの評者は、健三と細君の言い分が、並列叙法とも言うべき仕方で、つねに併置されることで、内容的にはこの夫婦は相容れない仲の悪い夫婦と読まれるが、じつはあまりに頻繁に同時異心が連続することによって、内容的な距離がじつは好伴侶を意味するようになるという、じつに卓抜な読みを提示してくれるところは、こうした小説技法研究にいったいどんな意味があるのかと訝しがる向きにも、なるほどと合点がいくのではないかと思う。


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