読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『浮雲』

2011年12月18日 | 作家ハ行
二葉亭四迷『浮雲』(岩波文庫、2004年)

浮雲 (岩波文庫)
二葉亭 四迷,十川 信介
岩波書店
言文一致体で書かれた小説として有名な作品。言文一致体で書かれているということで読んでみると、明治中期の東京の言葉には、現代とほとんど変わっていないことが分かる。たとえばパラパラとめくって適当なところを開いてみる。第一篇第三回のお勢と文三の会話の部分。

「アノー夕べは貴君(あなた)どうなすったの
返答なし
「何だか私が残酷だって大変おこっていらしったが 何が残酷ですの。

というようなところを読んでも、それほど違和感がない。たいてい現代を変わっているところは漢字による当て字の部分が大きい。

それ以上に興味深いのは、大卒なのに就職がなかなか見つからない、また雇用されても簡単に解雇される(しかも公務員であるのに)など労働条件が非常に不安定というところだ。私たちが子どもの頃には大学を出れば、生活は安定しまともな暮らしができるということが当たり前になっていたように思うが、明治中期には大卒というものがそれほどたいしたステイタスではなかったのだろうか。

たしかに私の祖父母の時代、つまり昭和の30年代あたりだって、とくにたいした定職についていなくても、ほそぼそと生活していくことができたような時代だ。いったい何をして毎日飯を食っていたのかと思うような生活をしていたらしいことが、祖父母の話を聞いていると分かる。ややり大卒が大企業に就職して定年退職までバリバリ働き、退職後は悠々自適の老後を過ごすみたいな、私たちが大卒に持っている安定したイメージは戦後の高度経済成長期にできた神話の一つなのかもしれない。

そのあたりのことはもうひとつよく分からないが、そうした作品の状況設定はまさに時代の姿をリアルに伝えているのだろうし、もう一つ感心したのが、登場人物たちの行動やそれを動かす心理のあり方や価値観にそれほど現代人との違いがないということだ。つまり文三やお勢や彼女の母親のお政、そして文三の同級生である本田昇たちの行動の規範に違和感を抱くことなく読めるということは、それほど私たちの行動規範と隔たっていないからだろう。もちろん個人的には私だったらそんなことはしないだろう、こうするだろうという思いを持つことはあるが、それと登場人物たちの行動が理解できる・できないとは別のことだ。

ここでは登場人物たちがなぜこの場面でこのような行動をするのか、いったん物語の進行を止めて、語り手が説明をしている。これは漱石でいえば最後の作品『明暗』に典型的に使われた手法である。『明暗』は漱石の作品のなかで初めて女が主人公になった(あるいは津田、彼の妻、津田の妹たちの視点で物語が語られる)作品であると言うことができるが、たぶんそれもあって、女がこんなときにどうしてこんな行動をするのか事細かに説明をすることで人間をリアルに描くという目的を持っていたはずである。『浮雲』は初めてそうした登場人物の行動原理を説明していくために、実際に読者が日常的に考えたり感じたりしていることと同じレベルで登場人物の思考や感情を提示するために、どうしても言文一致体を用いる必要があったのではないかと考えられる。

高校生の頃からタイトルだけは知っていた小説をやっと読んだので、胸のつかえがおりた感じ。

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