仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

田舎が最先端

2013年08月26日 | 都市開教
作家の曽野綾子さんが産経新聞(25.8.25)「小さな親切、大きなお世話」という連載コラムに“高齢者時代 始まる悲劇”について、下記の様にありました。実際すでに、その胎動は見えています。


…団塊の世代1947~49年生まれ)が、すでに一部は老齢に入りかけた、彼らが75歳以上になる2025年に高齢者人口は3625万人になると言われている。…2060年には39.9%になって、実に日本人の2.5人に1人は65歳以上の高齢者になるという予想である。…私は恐ろしい社会現象の出現を、単に想像上の恐怖とは考えない。老人ホームの人々は、食事をは与えられても、人浴や排泄の面倒をみる人かいなくなるだろう。町には棄民に近い孤独な高齢者があふれ、道端に横たわり、死なないだけで生きているとはいえない状況で、彷徨い歩くようになるだろう。
 若者たちは老人の存在自体を悪と考えるか、あるいは自分たちの発展を阻止するものと敵視する。その結果個人的に高齢者を殺害するか、あるいは集団で老人ホームを襲撃したり、火を放って焼いたりするようになるかもしれない。
一方、老人は若い世代からますます自分の生が脅かされていると感じ、若い世代を憎み、自分たちが、ただ生き延びるだけを考えて、利己的な自衛に走るようになる。そこには一定の時期か来れば人は死ぬものだという人間らしい覚悟も哲学も、存在のかげを潜める。2035年は決して遠い先ではない。私にとって20数年前から今闇での年月は、ほんの数年のように感じられるほどだ。人にやさしいという言葉を掲げ、長寿を目標とした社会構造には、大なたを振るわなければならない。安部内閣は、この推測可能な悪夢に、ただちに手をうたなければ手遅れになる。(以上)

上記の解決にもっとも先進的取り組みをしているのは島根県の「日本一の田舎づくり計画」です。行政全体で少子高齢社会を支えるシステムと価値観を構築しなければならない。浄土真宗の寺院所在は、田舎に多くあるので、もっとも先進的な役割を担う場所といった見定めが必要だろう。

昨年に続き、北九州門司区鎮西別院での婦人会研修会への出向です。今日は、午前10時から研修会がスタートして、午前午後と「現代社会の病理」というテーマで話すこととなっています。

今思ったことですが、「現代社会の病理」とは、現実生活の中で私が冒されている現代病理を克明に洞察して語っていけばいいのでしょう。そのことを抜きにして、評論してはならない。その視点で語ってみます。その地域の人があれば、鎮西別院へ聞きに来てください。10時からと13時からの2席です。
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落語会でした

2013年08月25日 | 日記
昨日は、当寺の年に一度の落語会。参加者は40名弱、毎月の法話会だと60名を下回ると今日は少ないと心配のなるのですが、そこは落語会なので、なぜか参加者が少なくても安心していました。これが逆ならば悩むところでしょうが、法話会に来る人と、法話会に来る人の、客筋(?)が、重なってい人もいますが違うので、このイベントはおまけといった思いで見ているからでしょう。

このたびの独演会は三遊亭円遊師匠、春日部市にお住まいで、以外と近くです。出演が終わって、控室に入ったときは、すでに帯が半部ほどけ、そのまま一気に着物から平服に着替え、5分後には、「ではこれで失礼」と席を立たれました。その一連の動きが板について自然でした。20年前からの西方寺へはで5年ぶり。本願寺派の寺院への750回大遠忌関連で、数ヶ寺出向しているとのことでした。師匠は、福井県出身の東京下町育ちの浄土真宗の方です。

前回は、講談師の神田蘭さんとの共演で、そのご縁から神田蘭さんへ親鸞聖人の妻、恵信尼公とのエピソードを綴った、「恵信尼さまとの恋」という講談戯曲を演じてもらうこととなりました。
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イチロー4000本安打

2013年08月24日 | 日記
イチローの4000安打達成(25.8.22)。「…誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね」言えない言葉であり、失敗を正視し続けることはできないことです。

出来ていないことが山積みの寺院活動の中で、活動が打率換算で公表されないことを幸いに日暮らしをしている昨今です。

その日暮らしもあと10年(70歳)、ご報謝に努力してください。自分に。
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葬式仏教宣言!講座

2013年08月23日 | セレモニー
仏教界の情報新聞である『仏教タイムス』(25.8.1号)に、株式会社寺院デザイン「葬式仏教宣言!講座」を開催したという記事が出ていました。

気になる部分をピックアップしておきます。

葬式仏教への「ちょっとお経を読んで30万円は考えられない」「葬式で金儲けばかりしている」という一般の声や、仏教界からの「葬式は本来の仏教ではない。仏教は生きるための教えだ」との批判については、葬儀に関し一般からの誤解や決めつけ等があること、宗学重視の宗門教育の中で葬儀の研究がなされていないことに、批判の原因があると説明。
 葬式仏教の価値を向上させるヒントについては、お布施の問題にも言及し、お布施の目安を伝えていた地域のコミュニティが変化したこと、「お気持ちで」が通用しない時期にきていると分析。経済学でいう「情報の非対称性」の理論を紹介し、「情報が少ない方 (檀家)が不利だが、売り手が有利なのは一時的。この状態が続くと信頼が失われ、市場が停滞する」と警鐘を鴫らした。お布施の考え方ついても、僧侶の考える宗教的な意義「行、慈悲、財施としての布施」と「お礼、料金、見栄、慣習」と考える一般の感覚とのズレを指摘。「葬式の際にお金の受け渡しをすることは取引に近い」とし、その場合は「お布施に対価や料金という面がでてくる」と一般とのズレをどう解消すべきか、問題点が挙げられた。
 この他、本堂で営む葬儀の可能性や、霊の存在を葬儀でどう語るべきか、檀家制度に代わる新たな寺院運営を模索できないか、葬儀社との関係構築など、多くの論点を紹介。(以上)

寺院デザインのホームページブログ(http://www.jiin-design.co.jp/blog/?p=303)には次のようにありました。
葬式仏教で熱い議論
葬式仏教の価値向上について、みんなで考えていこうという「葬式仏教価値向上委員会」が、7月22日、23日の2日間にわたって行われました。
 

 
 通常のセミナーとは異なり、参加者が意見を交わして、研鑽していくのがこの「葬式仏教価値向上委員会」です。
 
冒頭で、弊社代表の薄井が「葬式仏教宣言!」と題して講義。
続いて参加者の方々が参加して、葬式仏教の未来について議論をしました。
議論は多岐にわたり、次のような意見交換がなされました。
 
・葬儀そのものの魅力は何なのか?
・葬儀の魅力を壇信徒や参列者にどうやって伝えるか?
・参列者に儀式をもっと良く理解して、味わってもらうためには?
・お布施の目安を聞かれた時、どんな対応をしているか?
・お布施の意味をどう説明しているか?
・霊魂をどう説明するのか?
・永代供養墓の運営をどのようにやっているか?
・人の心に響く法話とは?
 
意見交換は、二日ともに白熱し、終了予定時間をオーバーし、会場の利用時間ぎりぎりまで続きました。(以上)
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慈悲とは共感力

2013年08月22日 | 浄土真宗とは?
如来の慈悲とは、すべてのいのちに共感していける心のことです。この共感力について昨日紹介した『まねが育むヒトの心』に興味ある記述があります。以下転載です。

 他者に共感する動物は、ヒトだけではありません。サルやチンパンジー、イルカやラットなども他個体の感情を敏感に察し、反応します。しかし、見落とされがちな大事な点があります。ヒト以外の動物がみせる共感の大半は、他個体の不快な感情、たとえば、恐れ、怒り、成嚇ごとに限定されていることです。他個体の不快さをすばやく感じ取ることがでされば、これからわが身に起こる危険を事前に回避することができます。多くの動物が他の個体の不快な感情に敏感なのは、自分白身の生存をかけた重要な意義があったからだと考えられます。
 それに対し、ヒトが共感するのは他人の不快な感情しとどまりません。快の感情、心地よい感情、他人の喜びやうれしさまでをも共有する、特別な共感力をもっています。(以上)

本を読みながら「へー、そうなんだ」と感心しました。またこの共感する力には、安心を共感するという状況があるようです。アメリカの心理学者、J・キャンポスたちによる研究成果だそうです。

赤ちゃんがハイハイしている先に、下が崖になっている上に透明なガラスを引いておきます。赤ちゃんにとっては、落ちてしまわないかと恐怖を感じる場所です。もちろん、ガラスは丈夫なので赤ちゃんが床に転がり落ちることはありません。
次に母親には透明なガラスの向こう側に立ちます。赤ちゃんが母親のもとへ行くには、透明なガラス部分を渡りきらなければなりません。視覚的断岸を感じる赤ちゃんはガラス部分を渡ることをためらい、母親の顔色をうかがいます。その時、もし母親がにっこり微笑んで優しい声をかければ、渡っても大丈夫だよというメッセージとして受けとめられ、母親の顔や声が恐怖と緊張でこわばっていたら、渡ことをためらうのだそうです。

本から抜粋してみましょう。


生後12力月の赤ちゃんの74%は、母親が岸の向こうで安心のシグナルを示した時に崖を渡りました。しかし、母親が恐怖心のシグナルを示した時には、誰一人崖を渡らなかったのです。この時期のヒトの赤ちゃんは、他者の感情をモニターし、それを利用して自分の行動を調整し始めているといえます。(以上)

人は安心にも共感することができるという点が、真宗の阿弥陀如来にすべてをゆだねて人生の苦界を渡たりきることができるということ点と重なり、阿弥陀さまの「大丈夫だから」との教えが有り難く思われました。
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