26日(25.8月)北九州門司区にある鎮西別院での研修会出向でした。教区仏教婦人会長のYさんが、終わってのごあいさつに来られたとき、良いご質問をいただきました。
知人から金子みすずさんの詩「わたしと小鳥とすずと」
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
「この詩は傲慢(?)な詩のように思われると言われましたが…」(意趣)とのことでした。
聴きながらすぐピンときました。確かに「みんなちがって、みんないい」という言葉が、評価分別の域を脱していません。だからその人の状況によっては、「そーっとしておいて」といった反感を持つ場合もあります。たとえば最近、報道されている藤圭子さんの死亡、ご息女の宇多田ヒカルさんのコメントが報道されていますが、悲しみと悔しさ、また母は病気から解放されたという安堵、その言葉にならない状況の中で、この詩を言われたらたまったものではありません。「良し悪しの評価の物差しで自分を見ないで、ほっといてー」というところでしょう。
ひと月前くらいに「ジョニーは戦場へ行った」のことを書きました。戦争で耳も目も鼻も失い、数年後、病室に横たわっている身で、モーリス信号で、看護師と会話をすることを見出した。看護師の「今、一番して欲しいことは?」と問われて発した信号が「殺してくれ」ということでした。そうした状況の中にある人の前で、この詩は語れません。
仏さまであれば、おそらく、その身を肯定する眼差しで、唯々沈黙のしてその身に寄り添うといった態度だと思われます。また阿弥陀さまは「大弘誓を超発して」と大慈悲を発動されました。
おそらくこの詩に傲慢さ感じた方は、悲しみや厳しい状況の中にあって「みんあちがって、みんないい」の言葉から、「評価の眼差しで私を見ないで…」というプレッシャーを感じたに違いありません。
質問されて、上記のことを思い、この詩に接していて、そのことに思いが及ばなかった自分に、すべてに流されて過ごしている自分を思いました。
知人から金子みすずさんの詩「わたしと小鳥とすずと」
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
「この詩は傲慢(?)な詩のように思われると言われましたが…」(意趣)とのことでした。
聴きながらすぐピンときました。確かに「みんなちがって、みんないい」という言葉が、評価分別の域を脱していません。だからその人の状況によっては、「そーっとしておいて」といった反感を持つ場合もあります。たとえば最近、報道されている藤圭子さんの死亡、ご息女の宇多田ヒカルさんのコメントが報道されていますが、悲しみと悔しさ、また母は病気から解放されたという安堵、その言葉にならない状況の中で、この詩を言われたらたまったものではありません。「良し悪しの評価の物差しで自分を見ないで、ほっといてー」というところでしょう。
ひと月前くらいに「ジョニーは戦場へ行った」のことを書きました。戦争で耳も目も鼻も失い、数年後、病室に横たわっている身で、モーリス信号で、看護師と会話をすることを見出した。看護師の「今、一番して欲しいことは?」と問われて発した信号が「殺してくれ」ということでした。そうした状況の中にある人の前で、この詩は語れません。
仏さまであれば、おそらく、その身を肯定する眼差しで、唯々沈黙のしてその身に寄り添うといった態度だと思われます。また阿弥陀さまは「大弘誓を超発して」と大慈悲を発動されました。
おそらくこの詩に傲慢さ感じた方は、悲しみや厳しい状況の中にあって「みんあちがって、みんないい」の言葉から、「評価の眼差しで私を見ないで…」というプレッシャーを感じたに違いありません。
質問されて、上記のことを思い、この詩に接していて、そのことに思いが及ばなかった自分に、すべてに流されて過ごしている自分を思いました。
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