辛口書評が好きです。2編目。
三丁目の夕日ヶ丘の古本屋
http://blogs.yahoo.co.jp/d0nchan888/28333877.html
おじさん、嫌いな人種が3つある。
ヤクザ・坊主・自衛隊である。
まあ、おじさん、職業にあまり偏見を持たないようにと常々思っているのだが、とにかく、このジャンルの人々が、好きではない。
どちらかと言うと、関わりも持ちたくない。
理由を強いて挙げれば、おじさんは、どうも、こうした人達に対して、思い込みが強く、謙虚さが欠けている人達の集まりだなと思ってしまうのだ。
自分の論理を一方的に押し付け、他人に有無を言わせないようなところがある。
まあ、ヤアさんは別だが、一見、普段は優しく、謙虚そうに振舞うが、それは牙をむいた狼が猫なで声を出しているに等しい。
優しそうな声で、威嚇しているような所がある。
実は、いつも牙を剥いているのだ。
結局、自らの考え方に従わなければ、したたかに反撃してくる、そんな人達のような気がしてならないのだ。
結構、狡猾で、身勝手な人達、頑固で、人に耳を貸さない人達というイメージをもってしまう。
勿論、一杯、良い人もいるのだろうが、おじさん、残念ながら、総体として、こんなイメージに捉われてしまっている。
思い込みが過ぎるような気もするが、とにかく、おじさんは、こうしたジャンルの人達が苦手なのだ。
ところが、案外、怖いもの見たさなのかな、矛盾しているが、偉い坊さんの物語が、古今東西、新旧に関わらず、どんなものでも、思わず手にとって、読んでしまうのである。
物語の中での著者のしたり顔が見えてくるようで、それを見たくて仕方がないのかもしれない。
いや、そうした偉人へのお追従をばかにするのではなく、おじさん、そんな、したり顔の世界が嫌なのだが、妙な好奇心と共に、どこか期待もあるのである。
この本『親鸞物語』 著者「西原 祐治」も、そんな気分で手に取った。
やはり、たくさんのしたり顔が見えたような気がした。
これは親鸞自身に対して見るしたり顔ではなく、この著者の法話か、小説か判然としない書き方の中で、かいま、見えてくる著者のしたり顔である。
断っておくが、この本の諸処には、おじさんが人生を生きていくに当たり、糧としたいような教えや教訓が、ものすごく満ち満ちている。
おじさんも、卒直にありがたい人生訓として押しいただきたい教えも数多ある。
しかし、おじさん、人間ができていないせいか、この本を読んでいると、どうも心の中で、こっそり舌を出してしまうところがある。
バチあたりめ!
とにかく、思ってしまうのだ。
この本は、一体何のために、誰に読ませるために書かれたのだろうかと、思うのである。
どうも、おじさんには、申し訳ないが、その大部分、自己満足に感じられてしまうのである。
あまのじゃく、素直じゃないのだな。
しかし、こうした伝記と言うものは、ウソとねつ造、曲解が多く含まれているような気がする。
特に、宗教関連の偉い坊さんの伝記には、恐れ多くも何故か胡散臭いものが多いようである。
偉人の伝記を読んでいると、見てきたようなウソをつくという言葉さながらに、まるで伝記作家が、あたかも自分が当人であるように好き勝手に、物語が構成されていく。
まあ、小説な、らそれで許されるのだが、どうも実像と虚像が曖昧になるようである。
著者の思いだけが、表に出てくる。
そこで、事実を曖昧にしてしまう。
著者が想像した架空の人物なら良いが、そこに実大の人物が登場すると、特に宗教物語については、何らかの恣意的なものを感じざるえなくなる。
いやはや、そうしたことに捉われず、心を虚しくして読めばいいのだが、おじさんには、それができない。
だから物語を、臭く読んでしまう。
そして、怖いもの見たさの読書が続くのである。
この本は、そんなおじさんの気分をもっともシンボライズしてくれる本であった。
おじさん、本当は、純粋に、宗教家のその人となりを伝えてくれる本を期待しているのだが…
残念ながら、なかなか出あえないのは、どうしてだろう。
この本も、どこか宗門の啓もう書のような嫌いがあり、少し期待外れの感があった。
確か、五木寛之も親鸞を小説化しているはず。
いつか機会を見つけて読んでみたい。
五木寛之は親鸞の物語を宗門啓もう書としてではなく、自らを語る小説として、どう料理しているか楽しみである。
この本は、親鸞を知ると言うより、その教義の入門書として考えた方が良いだろう。
ありがたい教義については、コメントしようがありません。
興味のある方は、自らお読みください。
三丁目の夕日ヶ丘の古本屋
http://blogs.yahoo.co.jp/d0nchan888/28333877.html
おじさん、嫌いな人種が3つある。
ヤクザ・坊主・自衛隊である。
まあ、おじさん、職業にあまり偏見を持たないようにと常々思っているのだが、とにかく、このジャンルの人々が、好きではない。
どちらかと言うと、関わりも持ちたくない。
理由を強いて挙げれば、おじさんは、どうも、こうした人達に対して、思い込みが強く、謙虚さが欠けている人達の集まりだなと思ってしまうのだ。
自分の論理を一方的に押し付け、他人に有無を言わせないようなところがある。
まあ、ヤアさんは別だが、一見、普段は優しく、謙虚そうに振舞うが、それは牙をむいた狼が猫なで声を出しているに等しい。
優しそうな声で、威嚇しているような所がある。
実は、いつも牙を剥いているのだ。
結局、自らの考え方に従わなければ、したたかに反撃してくる、そんな人達のような気がしてならないのだ。
結構、狡猾で、身勝手な人達、頑固で、人に耳を貸さない人達というイメージをもってしまう。
勿論、一杯、良い人もいるのだろうが、おじさん、残念ながら、総体として、こんなイメージに捉われてしまっている。
思い込みが過ぎるような気もするが、とにかく、おじさんは、こうしたジャンルの人達が苦手なのだ。
ところが、案外、怖いもの見たさなのかな、矛盾しているが、偉い坊さんの物語が、古今東西、新旧に関わらず、どんなものでも、思わず手にとって、読んでしまうのである。
物語の中での著者のしたり顔が見えてくるようで、それを見たくて仕方がないのかもしれない。
いや、そうした偉人へのお追従をばかにするのではなく、おじさん、そんな、したり顔の世界が嫌なのだが、妙な好奇心と共に、どこか期待もあるのである。
この本『親鸞物語』 著者「西原 祐治」も、そんな気分で手に取った。
やはり、たくさんのしたり顔が見えたような気がした。
これは親鸞自身に対して見るしたり顔ではなく、この著者の法話か、小説か判然としない書き方の中で、かいま、見えてくる著者のしたり顔である。
断っておくが、この本の諸処には、おじさんが人生を生きていくに当たり、糧としたいような教えや教訓が、ものすごく満ち満ちている。
おじさんも、卒直にありがたい人生訓として押しいただきたい教えも数多ある。
しかし、おじさん、人間ができていないせいか、この本を読んでいると、どうも心の中で、こっそり舌を出してしまうところがある。
バチあたりめ!
とにかく、思ってしまうのだ。
この本は、一体何のために、誰に読ませるために書かれたのだろうかと、思うのである。
どうも、おじさんには、申し訳ないが、その大部分、自己満足に感じられてしまうのである。
あまのじゃく、素直じゃないのだな。
しかし、こうした伝記と言うものは、ウソとねつ造、曲解が多く含まれているような気がする。
特に、宗教関連の偉い坊さんの伝記には、恐れ多くも何故か胡散臭いものが多いようである。
偉人の伝記を読んでいると、見てきたようなウソをつくという言葉さながらに、まるで伝記作家が、あたかも自分が当人であるように好き勝手に、物語が構成されていく。
まあ、小説な、らそれで許されるのだが、どうも実像と虚像が曖昧になるようである。
著者の思いだけが、表に出てくる。
そこで、事実を曖昧にしてしまう。
著者が想像した架空の人物なら良いが、そこに実大の人物が登場すると、特に宗教物語については、何らかの恣意的なものを感じざるえなくなる。
いやはや、そうしたことに捉われず、心を虚しくして読めばいいのだが、おじさんには、それができない。
だから物語を、臭く読んでしまう。
そして、怖いもの見たさの読書が続くのである。
この本は、そんなおじさんの気分をもっともシンボライズしてくれる本であった。
おじさん、本当は、純粋に、宗教家のその人となりを伝えてくれる本を期待しているのだが…
残念ながら、なかなか出あえないのは、どうしてだろう。
この本も、どこか宗門の啓もう書のような嫌いがあり、少し期待外れの感があった。
確か、五木寛之も親鸞を小説化しているはず。
いつか機会を見つけて読んでみたい。
五木寛之は親鸞の物語を宗門啓もう書としてではなく、自らを語る小説として、どう料理しているか楽しみである。
この本は、親鸞を知ると言うより、その教義の入門書として考えた方が良いだろう。
ありがたい教義については、コメントしようがありません。
興味のある方は、自らお読みください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます