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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

人に役に立つとは?

2019年04月12日 | 生命倫理
武蔵野大学から「2018年度大学礼拝講話集」が送ってきました。毎月の礼拝の日に大学所属の先生が講話をしたその講話集です。文字の分量から10分~15分といった講話でしょう。


平成三十年十一月二十七日 有明キャンパス
「他人の役に立つということ」仏教文化研究所 大谷弘氏の講話が掲載されてました。弘氏は、知っている人は知っている人ですが、現在、武蔵野大学人間科学部准教授(東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究(哲学)博士課程満期退学、文学博士)です。以下抜粋です。

大学(武蔵野)の「ディプロマポリシー」にも、「世界の幸せに貢献する人材を育成する」というフレーズが入っているのですが、この「世界」が「世界中の人々」という意味だとすれば、我々の大学も「他人の役に立つこと」を目指していると言うことができそうです。
 とはいえ、ここでちょっと立ち止まっていわば「哲学的」に考えてみたいのは、「他人の役に立つとはどういうことなのか」、そして、「そもそも他人の役に立つことがどれほど価値あることなのか」ということです。


 この問いを考えるとき、私は2016年に起こった「相模原障害者殺傷事件」のことを思い浮かべます。…インター・ネットを中心に「重度の障害者は社会の役に立だないから排除するのもやむを得ない」というような言説が広まりました。
 もちろん、我々としてはそのような考え方が間違っている、障害者を社会から排除していいわけがない、と答えたいのですが、その一方で「他人の役に立つのは立派なことだ、価値あることだ」という考えも持っています。では、「重度の障害者は社会の役に立かないから排除するのもやむを得ない」という考えが間違っているという意見と、「他人の役に立つのは価値あることだ」という意見をどのようにして調和させればいいのでしょうか。
 
…我々は「他人の役に立つこと」が価値あることだとしても、それがすべてではないと認識する必要があると思います。要するに、他人の役になんか立たなくてもいいんだ、人間はその存在によってそれだけで尊いのだということです。もちろん、この「尊さ」については、もっと分析して議論する必要がありますが、それは「尊厳」や「権利」といった概念をめぐる哲学的、思想的議論に踏み込むことですので、今日はここまでとさせていただきます。ありがとうございました。(以上)

だいぶ間引きしましたが、設問が興味深い。実際日常生活で「人に役に立つことはいいことだ」といっておきながら「役に立たない重度の障害者も尊厳ある一人」と云っているのですから「人に役に立つとは何か」を吟味にする必要があります。
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