仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

おまえはダイヤモンドだった

2021年09月09日 | いい話

法話メモ帳より

 

大乗 2009年6月号

 

安芸教区浄土寺住職 朝枝思善

“おまえはダイヤモンドだった”

 

先日、門徒の夜伽(広島では通夜のこと)にお参りしたときのことであります。

 夫を失った妻君が、にこにこ顔で対応しているので、とてもびっくりしたのです。不思議に思って話しかけてみました。

「どこが悪かったの?」

「はい、直腸がんで入院していました」

「よく看てあげたのだそうですネ」                 

「でもとてもわがままなところがあって、金曜日の夕方には自宅に帰り、月曜日にまた病院に行く生活だったんです。どうしてかというと、それはご院家(住職)さんのお世話で新しい仏壇を購入したとき、『仏壇は飾り物ではない。お浄土の出店だから朝夕必ず仏参し、阿弥陀さまにごあいさつをし、時にはお寺に参って聴聞をする』とかわした約束を守るためでした」

と言われるのです。

 このわがままはとてもすばらしいことなのですが、これだけではにこにこ顔の答えにならないので、

「他にもっと他に何かあっだのでは?」

聞いたのです。すると、

「実は1ヵ月前から寝たきりになり、家に帰ることはもちろんできず、一日中看病の手がいる状態になりました。そして昨日私の手を握って、『長いこと世話になったのー、おまえと一緒になって、わしはほんまに幸せだった。ありがとう』と言いました。そして、

『おまえはわしにとってダイヤモンドだった。わしに仏法をすすめてくれてありがとう。ひと足先にお浄土に往く、また会おうのー』と言って念仏しながら息をひきとったのです。

 私は、まさかこのにが“ダイヤモンド”だなんて言ってくれるとは思ってもみなかった。私はうれしくて、うれしくて、私の方からありがとう、と言ったのです」

 この言葉を聞いて、やっとにこにこ顔の理由が解ったのです。そばにいた家族、特に子供たちが、「お母さん、なんでこのことを早く言わなかったの。そうなの、そうなの、お父さんがそんなことお母さんに言ったの。よかったネー」

 この会話は、肉身を失った通夜でありながら、なんとも明るい雰囲気の中でのひとときでありました。まさに如来さまのお慈悲に生きる家庭そのものであります。

 さて、私の人生にとって生死の問題、特に死の解決、いのちの行方が決定していないぐらい大ごとはありません。

 〈あんたの後生は引き受けた。安心せよ。まかせよ。必ず浄土に導いて仏にする〉との弥陀の本願招喚の勅命に信順するところに浄土真宗があります。(以上)

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