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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ぼくはぼく、人は人

2021年12月04日 | いい話

『すばらしい母親の物語―母と子の感動42編』(有吉忠行著)より一遍。以下転載。

 

銀杏がまぶしかった晩秋の一日、小学四年の男の子が信念にあふれた作文を書きました。

 

 「ぼくはぼく、人は人」

 

 今、小学校の高学年や中学生、高校生が、おかしな言葉を使っている。ちよ(-)すごい。むかつく。うっとい。ばっくれる……。どうして、みんなが使うのだろう。きっと、みんなが使っでいるから、自分も使わないと、仲間に入れないと思っているからだろう。

 ぼくは、これは、おかしいと思う。「ぼくはぼく、人は人」という、けじめの心を一人ひとりがしっかり持っていれば、こんな、おかしなことにはならない。みんなが同じ物を持ったり、同じかっこうをしたりして仲間を作っているのも、本当に変だ。

 一人ひとりの考え方が違っていて、お互いに違っている人の心は大切にしながら、仲間にまきこまれてしまわない、自由な、友達関係を作る。これが本当だと思う。だって、人間は一人ひとり違うのが当たり前なんだから。これを忘れたら、その人ではなくなってしまう。

 ぼくは友達がいっぱい欲しい。でも、同じ考えの人とだけ仲良くするのはつまらない。考えの違った人の考えをよく聞きながら、ぼくの心と人の心がいつも新しくつながっていくのが、楽しくて一番いいと思う。

 ぼくは、小学三年生になったとき、父と毋に「千人の子供には千通りの生き方がある」ということを教えられた。特に、いつも、ぼくと話を真剣にしてくれる毋は「ぼくの千通りの中の一つを決めるのは、お父さんでもなく、お母さんでもなく、ぼく自身だからね」「そして、その一つを選ぶのは、人に勝つためにとか、人に負けないためにということではなく、ぼくが、ぼくらしく生きるためだからね」「とにかく、人と比べるひつようはない」などと言ってくれた。

ぼくは、正直、母の言うことはわかるようで、少し、むずかしかった。でも「千人いたら千通り」という意味は、しだいに、はっきりわかってきた。そして今は「ぼくはぼく、人は人」ということもわかった。

 でも、「千通りのうちの一つを、どうして選ぶか」。これは、むずかしい。しかし少しでも自分で学び友達とも語り合いながら、自分を見つめていけば、自然にその生き方が見つかり、それが、最後には自分の「千通りの生き方」の一つになるだろうと思う。とにかく、みんながするから自分もするという「自分のない生き方」だけは、やらないようにする。

 母は、「あとで人の責任にしないようにね。自分への責任さえ持っていれば、どんな千通りの一つでもいいんだよ」と言う。そう言われれば言われるほど、〝責任〟について考えてしまう。(以上)

 

年齢に応じた教えがあるようです。中学生や高校生になって「千人の子供には千通りの生き方がある」という教えを伝えても、ワンポイント的には有効かもしれませんが、人生を貫く教えとならなのではないでしょうか。小学3.4年、これは重要な年ごろのようです。

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