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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

元服

2021年09月19日 | いい話

法話メモ帳より

 

中学生の作文 米沢英雄著「信とは何か」より

         元服
 ぼくは、今年三月、担任の先生からすすめられてA君と二人〇〇高校を受験した。〇〇高校は私立ではあるが、全国の優等生が集まってきているいわゆる有名校である。担任の先生から、君たち二人なら絶対大丈夫だと思うと強くすすめられたのである。僕らは得意であった。父母も喜んでくれた。先生や父母の期待を裏切ってはならないと、僕は猛烈に勉強した。
 ところが、その入試で、A君は期待通りにパスしたが、ぼくは落ちてしまった。得意の絶頂から奈落の底へ落ちてしまったのだ。何回かの実力テストでは、いつもぼくが一番でA君がそれに続いていた。それなのに、そのぼくが落ちてA君が通ったのだ。
 誰の顔も見たくないみじめな思い。父母が、部屋にとじこもっているぼくのために、ぼくの好きなものを運んでくれても、優しいことばをかけてくれても、それが、よけいにしゃくにさわった。
 何もかもたたきこわし、ひきちぎってやりたい怒りに燃えながら、ふとんの上に横たわっているとき、母がはいってきた。「Aさんがきてくださったよ」という。ぼくは言った。
 「かあさん、ぼくは誰の顔も見たくないんだ。特に、世界中で一番見たくない顔があるんだ。世界で一番いやな憎い顔があるんだ。だれの顔か、言わなくたってわかっているだろう。帰ってもらっておくれ。」
 母は言った。
 「せっかく、わざわざ来て下さっているのに、母さんにはそんなこと言えないよ。あんたたちの友だちの関係って、そんな薄情なものなの。ちょっとまちがえれば、敵味方になってしまうようなうすっぺらいものなの。母さんにはAさんを追い返すなんてできないよ、いやならいやでソッポを向いていなさいよ。そしたら帰られるだろうから。」といっておいて母は出ていった。
 入試に落ちたこのみじめさを、ぼくを追い越したことのない者に見下される。こんな屈辱ってあるだろうかと思うと、ぼくは気が狂いそうだった。
 二階に上がってくる足音が聞こえる。ふとんをかぶって寝ているこんなみじめな姿なんか見せられるか。胸を張って見すえてやろうと思ってぼくは起き上がった。
 戸が開いた。中学の三年間、A君がいつも着ていたくたびれた服のA君、涙をいっぱいためたくしゃくしゃの顔のA君。
 「××君、ぼくだけが通ってしまって、ごめんね」
 やっとそれだけ言って、両手で顔を覆い、かけおりるようにして階段を下りていった。
 ぼくは、はずかしさでいっぱいになってしまった。思いあがっていたぼく。いつも、A君になんか負けないぞと、A君を見下していたぼく。このぼくが合格してA君が落ちたとして、ぼくは、A君を訪ねて「ぼくだけが通ってしまって、ごめんね」と、泣いて慰めにいっただろうか。「ざまあみろ」と、よけい思いあがったに違いない自分に気がつくと、こんなぼくなんか、落ちるのが当然だ、と気がついた。彼とは、人間のできが違うと気がついた。通っていたら、どんなおそろしい、ひとりよがりの思いあがった人間になってしまったことだろう。落ちるのが当然だった。落ちてよかった。本当の人間にするために、天がぼくを落としてくれたんだ、と思うと、かなしいけれど、このかなしみを大切に出直そうと、決意みたいなものが湧いてくるのを感じた。
 ぼくは、今まで、思うようになることだけが幸福だと考えてきた。が、A君のおかげで、思うようにならないことのほうが、人生にとって、もっと大事なことなんだということを知った。
 昔の人は十五歳で元服したという。ぼくも入試に落ちたおかげで、元服できた気がする。

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