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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「亡くなる」何とかなりませんか

2011年05月04日 | 日記
早朝5時代のNHKラジオを聴いていると、佐渡の朱鷺の話題が話されていた。朱鷺の保護に詳しい現地の方が「朱鷺が亡くなる」という表現で朱鷺の死話題とされていました。

ラジオを聴きながら、ペットの死を「亡くなる」と表現する人が増えたと思ったら、鳥の死までが「亡くなる」と表現されるようになったかと思ったことです。よっぽど現代の日本人は“死”という言葉が嫌いなようです。

「日本語練習帳」(大野晋著・岩波新書)によると、「亡くなる」「お召しになる」「ご覧になる」などの「なる」という言葉が尊敬語です。「なる」は、「寒くなる」「木の実がなる」などと使うように、自然的成立を意味する言葉であり、古代の人は「自然のこと→遠いことと扱う→自分は立ち入らない→手を加えていない」とするのが、最高の敬意を表明した言葉となったとあります。だから肉親の死に対しては「亡くなる」という表現は用いないという常識が私の中にあります。

まあ昔から「死」と言う言葉を避けてきた歴史が日本にはあります。「冥土へ旅立つ」「黄泉に赴く」「鬼籍に入る」「天寿を全うする」「逝去」「逝く」「世を去る」「不帰の客となる」「帰らぬ人となる」「土に帰る」など、また無念の死を「果てる」、むなしい死を「朽ちる」、 戦場での死を「散る」、旅先での死を「客死する」、さらにそれが辺鄙な地や思いがけない場所の場合は「行き倒れる」とも言った。悪人や罪人の死などは「くたばる」という間接表現を使って「死」そのものを口にすること避けてきたようです。

私も『親鸞物語―泥中の蓮花―』では、身分の上下や死に方によって死の表現を変えました。たとえば、王や女王および四位や五位の位階をもつ者の死は「卒去(そつきょ)」と言い、皇族や三位以上の公爵の死は「薨去(こうきょ)」、天皇や死は「崩御(ほうぎょ)」と使い分けです。

「父は昨年、源頼朝殿が伊豆にて挙兵した際の戦乱にて斃(たお)れました。母も、その少し前に時没(じえき)により身罷(みまか)りました。」(親鸞物語より)

その小説を書いていた時、平安時代の死に対する表現の豊かさを思ったことです。牛も馬も鳥も、また肉親も尊敬する方も、みんな「亡くなる」では、どうも落ち着きません。といっって私自身「父が死んで」という表現に、少し落ち着かない感覚を覚える昨今でもあります。
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